帳簿の悪役令嬢は王子を選ばない

帳簿の悪役令嬢は王子を選ばない 第14話「第一部幕間」

蝋燭の火が帳面のページを揺らすたび、朱の線が生き物のようにきしんだ。紙の匂い、乾いたインクの渋み、そして誰かの手汗で少し柔らかくなったページの縁。宮廷の小部屋は狭く、石の冷たさが床から伝わる。外では夜警の足音が規則正しく進み、門の鍵が回る音が時折、遠くで聞こえた。

蝋燭の火が帳面のページを揺らすたび、朱の線が生き物のようにきしんだ。紙の匂い、乾いたインクの渋み、そして誰かの手汗で少し柔らかくなったページの縁。宮廷の小部屋は狭く、石の冷たさが床から伝わる。外では夜警の足音が規則正しく進み、門の鍵が回る音が時折、遠くで聞こえた。

「ここまで来て中断するのは得策ではありません」ユアンの声が低く、しかし確かなトーンで響く。彼の手は拳に握られたまま、机の縁を押さえていた。近衛の訓練でついた筋のついた前腕が、薄絹の袖を透かして見える。

ソフィアは帳簿に目を落とし、羽根ペンを指先でくるくると回した。彼女の机は整理されていたが、そこだけがなぜか乱雑に見えたのは、緊張のせいだろうか。書記の指先はインクでほんの少し黒く染まっている。彼女はゆっくりと顔を上げ、マリエルを見る。

「同意が必要なのは間違いない。だが、その同意には形があるだけで、実質は別だと私は知っている。帳簿は形式で動く。形式を利用するなら、審定局の眼を避けねばならない」

マリエルは手を帳簿の上に乗せた。表紙は厚く、押し花のように押された家紋が金箔で飾られている。指先に触れるたび、かすかな冷えが伝わる。彼女は目を閉じ、小さな声でひとつの名前を繰り返した。リトル・メロディ、母が夜に歌ってくれたうたのタイトルだ。ふだんは誰にも言わない、その目に入ると少しだけ頬が緩む記憶を確かめようとしたが、旋律は指の間から滑り落ちたように消えていた。空白。そこがいつの間にか穴になっている。

「また、抜けたのか」とユアンが囁く。言葉には同情と怒りが混じる。彼はマリエルが何かをしたことを知っている。だが何を失ったか――それはマリエルだけのものだった。

「代償は増える。でも、放っておけないの」マリエルは目を開け、帳簿の行を追った。朱の線で囲まれた段落の脇に、細い文字で追記がある。ソフィアが指でなぞると、そこに薄く押された印があるのが見えた。通常の家紋とは違い、それは小さな四角い凹み。まるで帳簿自体が誰かの計算を記録し、差し引きしているかのようだった。

「それは……」ソフィアが息を飲む。「ここに、使用の結果が自動で書き込まれる仕掛けがあるわ。誰がどれだけ代償を払ったか。帳簿はただの記録ではない。帳簿が、報酬と罰を帳じる。そしてそれは――」言葉を濁し、顔を伏せる。書記としての誇りと恐れが入り混じる表情だった。

扉の向こうで、静かに戸がノブで引かれる音がした。気配はないようであり、確実に近づいてくる。三人が顔を上げると、小姓のリセが足早に入ってきた。まだ年端もいかない顔だが、目には決意が宿っている。彼女の手には、しわくちゃの紙の束が握られていた。

「お嬢様、これ……」リセは言葉を詰まらせながら帳簿を差し出す。束はコピーではなく、しかとした原稿だった。城内の下働きが秘密裏に集めた、家々のささやかな願いを列挙したメモの集合体。名前だけの署名ではない。短い要望文と、なぜその願いが帳簿の「定め」に反するのか、そして自らの名を晒す理由が記されていた。冷たい夜の空気の中で、紙が震え、インクの匂いがべとついた。

「私が……書いた。みんな、言う勇気はない。でも、黙ってはいられないと」リセの声は震えていた。リセの父は下働きの一人で、母は市場で働く。彼女たちは帳簿に書かれた「定め」に自分たちを合わせることを強いられている。だが、何かが変われば自分たちも変われると、リセは信じていた。

「これを、どうするつもりだ?」ユアンが訊く。彼の視線は真っ直ぐで、リセの小柄な体を包むようだった。

「広めます。各家の代表に渡す。口頭での同意じゃなく、彼らが自分の手で書く。形式に則れば、合意読み替えは可能になる」ソフィアが答える。彼女の指先が、羽根ペンを持つ手に力を加える。書記としての手が震えないのは、彼女が自分の職掌を盾にする覚悟があるからだ。

だが、黙していたリアルの名が、部屋の空気を凍らせた。扉の影から、侯爵家の若者が現れた。王子の側近である彼は、先刻までの礼節を剥ぎ取った顔で立っている。彼の目は冷たく、机の帳簿の上に重く落ちるように見えた。

「そんなことをすれば、審定局が動く」リアルの声は寒かった。「形式的な同意が整えば、こちらにも規定がある。規定の遵守を求められたら、私の家は、いや、王都全体が制裁を受けかねない」

「それでも、私たちは人の言葉を待つべきだと私は思う」マリエルが言う。言葉に揺らぎはない。彼女の喉の奥には、空白になった旋律の代わりに強い決意が入っている。「私が何かを一方的に決めてはならない。合意は、彼らが書く形で示されるべきだ」

リアルは肩を揺らして笑った。「そう言うのは簡単だ。だが君は、既に人の運命を変えた。誰かの不利益を招いた。それで記憶を失ったというなら……君は贖罪をするべきだと、我が家は考える」

ユアンの拳がさらに強くなる。リセは俯いて指先を噛む。ソフィアは書類を抱き寄せ、息をついた。

「私の代償は私のものだ」マリエルは静かに言った。「誰かのためにそれを差し出した。だが今、あなたは一方的な恐れで人を黙らせようとしている。私たちがやることは違法に見えるかもしれない。それでも人々が署名すれば、それは『合意』になる。書面に残れば、帳簿の形式は機能する」

リアルは舌打ちをして、でも動かなかった。彼には守るべきものがある。ユアンはそれを見て、顔の筋が引きつるのを抑える。ソフィアはふっと笑ったように見えたが、目は赤くなっていた。

「だが、ひとつ確認しておく」ソフィアが低く言う。「帳簿は使った者の代償を、黙って勘定する仕組みがある。帳簿は誰かの選択を減らしていく。減った選択は戻らない。数えられた代償がどこへ行くのか――それはまだ誰も知らない」

マリエルは手を机に置いたまま、指の先に感じる微かな振動に敏感になった。ページの端に、新たに一行、細く刻まれた文字が現れているのが見えた。帳簿がただ記録するだけではなく、使用の痕跡を刻んでいく。そこに、彼女の名が薄く浮かび上がる。先に払った代償の一つはすでに零落としていたが、新たに何かが加われば、その痕跡が更に深く刻まれるだろう。

「私たちは一つずつ、選択を持っている」とユアンが言った。「だが君のやり方は──君自身が選ぶべきだ」

そのとき、扉の外から重い足取りが聞こえた。審定局の使いが近づいている。時間はない。机の上の紙の山が、夜の蝋燭の下で影の杭のように立つ。

ソフィアは立ち上がり、リセの小さな手を取り、紙の束を抱え込む。彼女の目には決意がはっきりと宿った。

「私は書記だ。帳簿の秩序を守ることが仕事だが、それは人が消耗するためのものではない。もし私が規則を破り、これを外に出すなら、私の役職は失われるだろう。家族も危険に晒される。だが、彼らが自ら署名する場を作ることは可能だ。私が夜にこっそり写し取り、各家に回す。形式は揃う。合意はそこに顕になる」

彼女の言葉に、部屋の空気が変わった。リアルの眉が少し上がる。ユアンは一歩前へ出る。

「一緒に行く」マリエルは軽く頷いた。彼女の胸の中に、また小さな空洞ができるのを感じた。だがその穴は怯えではなく、覚悟の穴だった。失うものがあるな