卒業制作室で成績優秀な落第生は一緒に休むことを覚える

卒業制作室で成績優秀な落第生は一緒に休むことを覚える 第23話「第21章」

会議室の蛍光灯は、いつもより低く唸っていた。長机の上に広げられた紙は、指紋まではっきり見えるほど手書きの線で埋まっている。ルール案をめくる指先は、消しゴムの粉で白くなっていた。空気はコーヒーの冷えた匂いと、湿った画用紙の匂いが混じっている。遠くで時計がカチリと時を刻む音が、何度も大きく聞こえた。

会議室の蛍光灯は、いつもより低く唸っていた。長机の上に広げられた紙は、指紋まではっきり見えるほど手書きの線で埋まっている。ルール案をめくる指先は、消しゴムの粉で白くなっていた。空気はコーヒーの冷えた匂いと、湿った画用紙の匂いが混じっている。遠くで時計がカチリと時を刻む音が、何度も大きく聞こえた。

「……案としてはこれでいいと思う。まずは原則を確認する。痕跡は当事者の同意があって初めて参照される。参照の場には当事者二名のうち少なくとも片方は現にいて、参照は可視化した状態で行う。録音・録画は不可、第三者の単独参照も不可だ」

透がゆっくり読み上げると、会議室の輪にいた数人の視線が彼の手元の一枚に集まった。紙には「同意の手続き」と赤い線で囲まれた箇条書きがあり、その欄外には早見が小さな字で「同意は書面+身体的合図」と走り書きしていた。真琴は鉛筆を咥えたまま、その文字に目を落としている。志田は肘をつき、迷いなくペンの先で線を引いている。彼らは皆、それぞれの経験を抱いてここに座っていた。

ドアが静かに開く音がして、桐原が入ってきた。彼はいつもの黒いノートを抱え、表情を険しくしている。長机に足を踏み入れると、彼はノートを開いて頁をめくりながら言った。

「これで解決するとは思わない。運用以前の問題だ。痕跡が『事実』として扱われるなら、学則や法的手続きと整合しなければならない。君たちの作った曖昧なルールでは、学校として対応できない」

桐原の声には冷たさがあった。彼の手元に置かれた一枚のコピーには、学務課の封筒がプリントされたようなマークが印刷されている。そこには、昼間に彼が書き留めたらしい短いメモの切れ端が挟んであった。透は彼を見返した。桐原の目には、ただの反対ではなく、どこか必死さが混じっている。

「だからこそ、学生同士の合意を重視するんだ。僕たちは痕跡を人の成績や評価に結びつけたくない。互いを評価するための道具になんて、絶対にさせない」

透が答えると、早見が小さく鼻息をついた。

「具体的にするなら、物理的なトークンを用意して、それを二人が明示的に握って『同意』を言う。トークンがある間だけ、対象物は参照可能。ただし、参照を『断定』する言葉が出た瞬間、痕跡は不安定化する。その不安定化をどう扱うかが課題だよね」

そこまで言うと、真琴が手のひらに収まる小さな粘土片を机に置いた。薄紫色に色づいたそれは、彼女と透が二週間前に作った試作の一つだ。二人で手を突っ込んで、軽く押し合って形を整えた──そのときだけ、痕跡は現れた。粘土の表面には温度の差のような色ムラがわずかに残り、触るとほのかな震えを孕んだ。

「実験をしてみればいい。ここで、みんなの前で」

志田の提案に、場の空気が硬くなる。桐原は顔色を変えて黙った。透は手を伸ばし、真琴と同時にトークン――ここでは真琴が用意した麻紐の小さな輪を持った。二人は目を合わせ、互いの手の中の紐に小さな合図をした。真琴が短く「同意」と言い、透が返す。言葉は小さかったが、塊の中で何かがゆっくり溶けるような感触が走った。

粘土の表面に、色が差した。淡い赤と青が混ざり合い、二つの指紋の痕跡と重なる。そしてその内部に、一瞬だけ二人の小さな感情の輪郭が浮かんだ。うれしさ、緊張、遠慮のあいまいな影。誰もが息を呑む。視覚だけでなく、室温が一拍低くなる感覚があった。

「見える……」早見が吐き捨てるようにつぶやいた。

だが、その直後、志田が反射的に口を出した。「これは――嫉妬の色だ。彼女が後ろめたさを感じてる。だからこれは不適切な関係の証拠になる――」

志田の言葉に、空気が凍る。真琴の指先がほんのわずかに震え、粘土が彼女の親指に沈むほどの圧で握られる。透の胸中も波立った。志田の言葉は比較的冷静だったが、内容は決定的だ。誰かが「これは●●だ」と断定するだけで、痕跡は変化するというルールを、彼は文字通り試そうとしていた。

「やめてくれ」と透は低く言った。だが志田の口は止まらない。彼がもう一歩踏み出すと、居並ぶ他の仲間の顔に緊張が走る。真琴の瞳が、ぷつりと切れた糸のように濁った。

その瞬間、粘土の片に走った色が不意に滲み、ぼんやりとした灰色になった。指紋の輪郭がどんどん薄れ、その表面に小さな亀裂が走る。亀裂は一瞬で粘土の半分を裂き、真琴の掌からかけ離れて落ちた。落ちた粘土片は、机に当たる寸前で砕け、粉と小さな欠片になった。

部屋には、粉っぽい匂いと砂のような音だけが残った。誰も声が出せなかった。志田の顔には驚きが走り、真琴は呆然と掌の欠片を見つめたまま震えている。透は、自分の身体の奥で、痕跡が「嘘」を言われたときにどれほど朽ちるのかを初めて痛感した。確信するのに言葉は要らなかった。断定が痕跡を奪う──ただそれだけでは済まない。共同で作ったものそのものが壊れる。

「申し訳ない」志田が小声で言った。彼の目に、恥と恐怖が混じる。桐原は表情を引き締め、ノートを持つ手がわずかに震えた。机の上の手書きのルール案の一枚に、粘土の粉がついて白い点が浮かんでいる。

「だからこそ、参照は断定を禁じなければならない。仮説は立てられても、断定はしない。それが守れないなら、参照そのものを許可してはならない」

真琴の声はほとんど掠れていたが、そこにはもう以前の怯えはなかった。彼女は割れた粘土を掌で撫で、砂粒を指先で滑らせた。痛みはない。だが、その手つきは丁寧で、何かを確かめるようだった。

「当事者の合意は取り消し可能であること。合意を取り消したなら、参照可能だった痕跡は即座に封印される。第三者の申し立てがある場合は、必ず当事者双方の明示的な再同意を求める。これを手続きに書き込む。あと、参照の場は必ず複数名の立会人を置くこと。記録は書面で残すが、痕跡の可視化そのものは媒体に保存しないこと。これは基本だ」

透は早見と志田の顔を見比べた。愕然とした表情の中に、合意の意味を慎重に取り戻そうとする意志が見える。桐原は静かに息を吐いた。

「それでも僕は、学校に報告する。学生の関係が学内で問題を起こしているなら、学則に従って処理するのは当然だ。君らのルールを尊重したいが、運用が放置されるわけにはいかない。第三者が危害を被る前に――」

「第三者?」真琴が問い返す。声が鋭くなった。

桐原は黙って、ポケットから何かを取り出した。印刷された書面が一枚、四つ折にされている。透の目はそれを追った。桐原は紙を机に滑らせるように置いた。

「これは、ある保護者から学務課に出された正式な申し立てだ。『痕跡を参照してほしい』という文言がここにある。つまり、当事者の同意によって参照が望まれたという記録が存在する。君たちがどれだけルールを整えようと、行政はこの申し立てを無視できない」

紙の上の文字は、すべてプロトコルに則った書式だった。透はそれを撫でるように見た。申し立ての日付は三日前。署名らしきものが、震える字で記されている。

「その署名は偽造かもしれない。あるいは圧力で書かされた可能性もある。だが、現時点で学務課は介入の必然性を感じ始めている。僕は誰かの権利が侵されるのを黙って見過ごせない」

桐原は言葉を切った