卒業制作室で成績優秀な落第生は一緒に休むことを覚える

卒業制作室で成績優秀な落第生は一緒に休むことを覚える 第21話「第19章」

作業机に残るラッカーの匂いが、夕方の空気と混じって重く沈んでいた。蛍光灯はもう一本切れていて、卒業制作室の奥は薄い影がぶつかり合っている。人の声がひっきりなしに出入りする廊下の向こうから聞こえ、それが一瞬、ここだけを孤立させるようだった。

作業机に残るラッカーの匂いが、夕方の空気と混じって重く沈んでいた。蛍光灯はもう一本切れていて、卒業制作室の奥は薄い影がぶつかり合っている。人の声がひっきりなしに出入りする廊下の向こうから聞こえ、それが一瞬、ここだけを孤立させるようだった。

「早くしないと、正式な閉鎖命令が下りるって言ってるんだよ」

桐原の言葉が廊下の戸を押し開いた瞬間に入ってきた。彼は生徒会の緊張した腱のように、無造作に書類を抱えている。作業台の周りに集まった十人あまりの顔がいっせいに桐原を見た。桐原の奥には、すでに学生課の副課長に当たる名前がある文書のコピーがちらりと見えた。

透は手袋をはめたまま、机で乾きかけの石膏パネルに触れていた。掌に残る微かな粉の感触が、先ほどまでの共同作業を思い出させる。手の甲に冷たい汗が滲むのを感じながらも、彼は口を開いた。

「閉鎖は止められないかもしれない。だけど、展示を守るためにやれることがある。『場の記憶』を、展示のナビゲーションにして見せるんだ」

声はくぐもっていた。彼が言う『場の記憶』は能力の別名でもある──二人以上で作ったものだけに残る痕跡、言葉にならない痕跡。透はいつもそれを、他人の本音を覗く道具に使いたくないと自分に言い聞かせていた。しかし、今は違った。説得ではなく、場を体験に変えること。人々が自分でそれを手触りで受け取るように導くこと。そこに賭けるしかないと彼は思った。

「…具体的にどうするんだ?」名倉が前に出た。腕を組んで、部屋の端に積んである小さな協働作品の山を見下ろす。美咲は携帯で教員の連絡先を書き留めている。中川は展示案のコピーを丸め、顔をしかめたまま胸ポケットに押し込んだ。

「強引に痕跡を読み取って、証言して回る方法もある。しかしそれだと、『誰かの気持ち』を押し付けることになる。すると痕跡そのものが薄くなる。これまで何度もそうなってきた」透の声は自分でも驚くほど冷静だった。「ここに残っているのは、手の温度、刃の擦れる回数、呼吸のリズム──それを『どう感じたか』を場に示すんだ。ナビゲーションは私の声じゃなく、触れた人の反応が作る」

桐原は冷笑した。「つまりアンタ一人で魔術ショーを見せるつもりか。学生課がそんなものを基準にするか?」

「基準じゃない。立ち会いの場を作るんだ。証人がいて、第三者がいて、誰かがこれを単なる個人の美学と断じられないようにする」美咲が割って入った。「牧野先生に来てもらえれば、学科横断の教員も巻き込める。公平な意見をもらう場にすれば、勝手に閉鎖はできないはずよ」

「でも時間がない」中川が手を叩いた。「学生委員会は明朝に緊急判断をすると聞いた。桐原が提出した暫定閉鎖申請は、行政的に効力を持つ。明日朝九時に撤去命令が出るって。止める手続きは、演出と同時に法的に動かさないと間に合わない」

透の掌に、微かな違和感が生じた。机の上の共同制作の一つ、粘土で十二人が指を入れて成形した小さな窓枠に触れた瞬間、そこから断片的な「呼吸」が返ってきた。複数の丁寧な呼吸、重なり合う指先の動き、やわらかな笑い。だがそれは完全に形になっていなかった。ある種の「隙間」があって、そこを誰かが決めつけると、音のように消え去る。

彼は試すように、わざと一言を付け加えた。

「これは――不安だ、ってことだ」

言葉を紡いだ途端、掌にあった呼吸は固まった。粘土の表面に残っていた指跡がふっと浅くなり、かすかなひびが入る。名倉が顔をしかめる。美咲が手を伸ばして粘土をそっと触ると、その表面がかさついていた。

「透、何をしたんだ?」中川の声は野太かった。周囲の空気が一瞬、鋭くなる。

「ごめん…」透の胸がぎくりと痛む。自分の言葉が、共同の形をいじったことに気づいた。能力の禁止事項が、行動として現れた瞬間だった。痕跡を「これだ」と決めつけたとたん、痕跡は反発し、共同物は壊れる。過去に何度もそれで信頼を失ってきた。今日はそれをやらないと心に決めていたのに。

名倉は粘土の破片を間に挟むようにして深呼吸した。「だから言っただろ。勝手に代表で語るなって。よく見ろ。あれは誰か一人の感情じゃない。複数の手が重なった結果だ」

美咲が静かに言った。「今、アンタが言った『不安』って言葉で、誰かの声が掻き消された。戻せる?」

透は掌にある残りのわずかな温度を拾おうとした。だが、さっきと同じ触れ方では戻らない。彼は腰を折り、額に手をやった。頭蓋の奥で、じんじんとした疲労が広がる。能力は彼の身体も代償に要求する。言葉で痕跡を拘束すれば、痕跡はそれに抗う。抗った結果、彼自身の感覚が薄れる。少し前までふつふつと響いていた呼吸が、ぱたりと静かになる。

「無理だ…一人の声で仕切るのは」透は小さく呟いた。「けど、このままだと明日で全部なくなる。私たちでやるしかない」

その言葉に、部屋の空気が動く。中川が牙をむいたように笑った。「よし。じゃあルールを作る。今日の夜中までに展示の取り扱い基準と、公聴会の要請文をまとめる。私は学内手続きを調べる。美咲は教員への取り次ぎを。名倉は作家側の代表を決めて。それと…」

「私は『場の記憶』のデモンストレーションをやる」透が割り込む。喉が震えたが、今度は言い訳じみた決め付けはしない。彼は自分の役割を限定し、明確に言葉にした。「声を当てるんじゃない。触って、感じて、返答してもらう。その記録を独立した立会人に取ってもらう。教師・外部から一人ずつ。学科外の学生も交えて」

名倉が眉を吊り上げる。「つまり、『導き』だけするってことか。自分で答えを出させると。うまくいけばいいけど…」

「行けるはずだ」美咲の目に決意が宿った。「牧野先生に頼む。彼は公平だし、学科横断の信頼もある。外部からは工芸科の鈴木さんを呼べる。彼女は卒制の審査経験がある」

「…それで、展示はどう守る?」桐原が口を挟む。彼はまだ不快そうに書類を握りしめていた。「言っておくが、私は規則を守る。学生課に掛け合うつもりはない。撤去命令が出たら、私はもう関与しない」

桐原の背中に、確かな壁が見える。彼が学内のルールを盾にして動く限り、単純な感情論は通じない。だからこそ、手続きを整え証人を付けることが実利となる。透はまばたき一つで自分を落ち着けた。

「わかった。デモは今夜八時。最初は学科横断の教員だけに見てもらう。記録は大学の公式フォーマットで残す。誰が何を触ったか、誰がどんな反応をしたか、第三者が逐一控える。私の声は最小限にする。代わりに、触れる人全員が一言を言う。『何を感じたか』って」

「そのとき、痕跡を決めつけないでな」名倉が視線を外さずに言った。「誰かが答えを出した時、それを否定するのはやめる。逆に、それを引き出す手助けをしろ。言葉を押し付けるな」

透は頷いた。胸の奥に、まだ冷たい穴があったが、仲間たちの顔が固まっていくのを見ていると少しだけ温度が戻る。彼らの決意は、これまでとは違う。自発的な選択で、守る側が主体性を持って行動するということだ。

八時になると、薄暗い展示室に教員が数人、工芸科の鈴木も来た。廊下を閉め切り、外部への通知は最低限に抑えた。透は手袋を外し、最初の作品にそっと触れた。