水族館で結婚式を嫌うプランナーは故郷に帰る理由を探す 第21話「第19章」
窓のない法廷に、薄い青が満ちていた。天井の照明が一様に冷たい海の底を思わせる色で、出廷者たちの頬を水面に揺れる反射のように撫でる。掲示パネルには水族館のロゴと同じフォントで「評価調停委員会」とだけ表示されている。観衆席は満席で、携帯の画面がもう一つの群れのように揺れていた。
窓のない法廷に、薄い青が満ちていた。天井の照明が一様に冷たい海の底を思わせる色で、出廷者たちの頬を水面に揺れる反射のように撫でる。掲示パネルには水族館のロゴと同じフォントで「評価調停委員会」とだけ表示されている。観衆席は満席で、携帯の画面がもう一つの群れのように揺れていた。
凪は鞄から小さな防水ケースを取り出した。表面に細かな擦り傷。中に入っているのは、白いテープの端が重なったハードディスク一つと、薄いガラスの欠片──その小片は、式当日に二人が水槽の底に沈めたという観賞用のガラス製モニュメントの破片だった。彼らが「共同で作った物」に残った痕跡。それだけが、今日の鍵だった。
「凪さん、準備は──」後ろで声がした。里緒が端正な顔を少し崩してこちらを見ている。里緒は凪の補佐で、書類の扱いと人心掌握を得意とする。だが今朝は、顔に疲労が滲んでいた。
「大丈夫、行ける。けど、順序を守って」凪は低く言った。自分にも言い聞かせるように。順序とは、彼女の能力のやり方だ。触れて、受け取り手の呼吸と共同制作の塗布された決断を追い、結論を持たずに提示する。決めつければ絵は溶け、急げば共同制作そのものが砕ける。代償はたしかにある。見るたびに、何かが抜け落ちる――昨日の夕食の味、幼い頃の傘の柄の記憶、細い磁石で留めた髪留めの生みの親の顔。小さな欠落が、彼女の頭蓋に穴を開けるように消えていった。
「行きますよ」と里緒が小声で告げる。彼女は前に出て、法廷書記官が差し出すマイクの向こうに立った。傍聴席のざわめきが一瞬止まり、評議の長である曽根裁定官が重い木槌を持ち上げた。木槌の持つ滑らかな冷たさが、凪の手のひらに写る。木槌を叩く音が、まるで深い鐘の一打のように響いた。
「被申告人、久遠・美琴両名の件、本日ここに証拠として提出する物の可否を審査する。証人、凪奏(なぎかなで)氏。発言を許す」
凪は立ち上がり、深呼吸をした。ガラス片を掌に包むと、冷気が皮膚の下にまでしみ込んだ。触覚からある種の残響が返ってくる。最初は薄い──二人の指の圧、互いに渡した時間の温度、言葉にならない押し合い。映像が顔を出す。海中のブルー、リングライトの眩さ、手元で震える紐。だが同時に、何かが裂けるような違和感。
「見てください」曽根が促す。
凪は言葉を飲み込んだ。能力の鉄則を思い出す。結論を先に置くな。固定観念を持つな。焦るな。だが傍聴席からは評価機構側の代理が冷ややかな笑みを浮かべている。時間が勝手に減っていく感覚。里緒が耳元で「急がないで」と囁くが、その声は裁判の拍子に消されそうになる。
凪は視線を内側に向け、力を抜いた。思考の輪郭を曖昧にし、ただ触れた物が語る波形を聴く。手のひらに、二人が同時に吐いた短い笑い声の残滓が重なった。次いで、指先で結んだ糸が止まった瞬間の小さな震え。二人が互いを支え合うために合図した瞬間の、まばゆい合意。それらは断片で、確定的な形をなさない。凪はその断片を、順序立てて並べた。映像の連なりが、法廷内で真新しい物語として立ち上がる。
だがそこで、彼女はやってはいけないことをした。自分の中でその映像が意味するところを「確信」に変えた瞬間、映像は水面の泡のように崩れて消えた。二人の合意ではなく、まるで第三者の手つきが割り込むように、別の色が差し込む。評価機構の代理、碓井が顔をしかめた。
「証人は主観的な印象を述べるに過ぎない。これでは裁定の材料たり得ぬ、と判断せざるを得ない」
曽根の眉がわずかに動く。法廷のルールは、なるほど機械的だ。記録としての客観性を最優先する。凪は内側で熱が冷えていくのを感じた。能力のルールがここでは定量化できない弱さであるということを、彼女は再び突きつけられた。
里緒が即座に動いた。机を叩かずにはいられないほどに、彼女の指先が震えているのが見て取れた。「代理人、碓井氏の指摘は一面では正しい。しかし――」里緒は口を噤んだ。凪は目配せを送る。里緒の自主的な判断はいつも鮮やかだ。今も彼女は、自分たちが持つ別の証拠、式の当日を記録した非公式の映像を提出するつもりでいる。
「非公式の映像は、評価規定の手続き外で撮影されたものです」碓井が即座に反論した。「当事者の同意が確認できない以上、我々はこれを公式証拠として認めるわけにはいかない」
観衆席から小さな怒声が上がる。罵声に混じって、被申告人の久遠が眉間に皺を寄せた。美琴はじっと凪を見つめている。その目には、疑念でも非難でもなく、ほんの一瞬――助けを求める光が差していた。凪はそれを見て思わず手が攣るような感覚を覚えた。自分の能力が唯一の望みであるという恐怖。
「では、証人は別の形で証言することを許されるか?」曽根が問いかける。
凪の中で、記憶を使うたびに生まれる代償の輪郭が鋭くなった。最後に能力を使ったとき、彼女は妹の顔の横顔を一つ忘れてしまった。帰省したときに、母が作ってくれた煮物の出汁の取り方を忘れた。日常の欠落はかつては些細に思えたが、繰り返されるうちに蓄積していく。だが今、目の前の人たちの選択が奪われようとしている。制度が、評価という名の数字で二人の未来を決めようとしている。
凪はゆっくりと息を吐いた。「提出します。ただし一つ条件があります」声は震えていたが、澄んでいた。
「条件とは?」曽根が冷静に問う。
「私の記憶を、法廷に記録として残すこと。私が見たものをそのまま、消費される前の形で保全すること。私が言葉を失った後に、ここで再現できるように記録してほしい。私の記憶が消える代わりに、それを公正な手続きで留める――それが条件です」
法廷は静まった。記録として残す、という提案は法律的には前例がない。碓井は眉を顰める。「記憶の記録化とは何を指すのか。主観の書き換えを強制するのか?」
「技術的には、当事者が持参した物的証拠(映像・共同制作の残滓)に付随して、証人の供述を逐語記録し、それを独立した第三者が補正して客観性を担保する、ということになります」里緒が説明する。彼女の言葉は的確だが、法廷の空気はまだ冷たい。評価機構は何よりも「形式」を守る。
久遠が立ち上がり、小さな声で言った。「僕たちは……それで構いません。凪さんが見たことを、そのまま残してください」
美琴が指先で久遠の手を握る。観衆席からはざわめきが再び立ち上る。評価機構側の支持者たちからは嘲笑が漏れ、被申告人を守ろうとする仲間たちの声が渦巻く。裁判官たちの表情はそろって無表情だが、曽根はしばらく沈黙した後、ゆっくりと木槌を置いた。
「よかろう。ただし、手続きは厳格に行う。証人は、ここで逐語の供述を行い、それを評価調停委員会の保存規程に従って封印する。証言が終わった時点で証人が記憶の減失を訴えた場合、補完措置に関しては別途審議する」
凪は頷いた。里緒が肩に触れ、微かに笑うように眉が動いた。その励ましだけで、凪はまた少し力を取り戻した。
記録の作業は長かった。ビデオ機器のセッティング、逐語の書き取り、評価機構の役人と第三者の監査。すべてがマニュアルに沿って冷静に進んでいった。凪はその間、ガラス片を手の中で転がし、何度も同じ波形を聴いた。映像回路がくっきり