夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える

夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える 第4話「第3章」

屋台の灯りがぶつかり合うように夜空を切り取っていた。黒い夏の幕に、提灯の橙が斑(むら)になって浮かぶ。佐伯陸也は木のテーブルに肘をつき、隣のうちわを撫でた。紙のざらつき、墨の匂い、夜風に混じるソースと焼けた肉の匂い。祭りの音は遠ざかる手拍子と近づく笑い声とが交互に波打って、陸也の耳にリズムを刻む。

屋台の灯りがぶつかり合うように夜空を切り取っていた。黒い夏の幕に、提灯の橙が斑(むら)になって浮かぶ。佐伯陸也は木のテーブルに肘をつき、隣のうちわを撫でた。紙のざらつき、墨の匂い、夜風に混じるソースと焼けた肉の匂い。祭りの音は遠ざかる手拍子と近づく笑い声とが交互に波打って、陸也の耳にリズムを刻む。

「無事だった、って感じだよ」

有里凛がテントの縁をつまむようにして立っていた。背中の紺の法被に、先ほど二人で描いた小さな扇の絵が擦れた色で残っている。凛の指先にまだ墨の粒が残っているのが見えた。彼女は目を伏せながらも、笑っていた。偶然にも、それは安堵の笑いだった。

「返事はしてくれた。悠斗が、ゆっくりでいいって。友達から始めたいって」

声は小さく、しかし確かな音だった。陸也はときどきこうして「代行」をした後の、当事者の顔を見なければならない。代役が終わった瞬間、全てが元の重力に戻るかのように、人は自分の場所に落ちる。今日もまた、落ちる音を聞いた。

「穏やかで良かったよ。でも……」

凛の口が一瞬だけ歪む。陸也はそれを見逃さなかった。穏やか、という言葉の裏にある罅(ひび)を、彼は感覚で拾う癖がある。自分の持つ不思議な感覚は、こうした共同制作物にだけ残る痕跡に触れることでしか発動しない。二人が同じ筆を握った扇、同じ紙に折った灯籠、同じ意味で結んだ短く固い糸。そうやって共に「作った」ものに、ふたりの気持ちはかすかな痕となって残るのだ。

「噂は流れてる」凛が続けた。「写真がグループに上がったみたい。『社内恋愛フラグ』ってキャプションで」

陸也の脳内に、水面に投げられた小石の一連の波紋が映る。写真が上がる。そして誰かがその写真に言葉を重ね、さらに誰かがスクリーンショットを撮って拡散する。祭りの夜景の光が、水の上に乱反射するように、噂の筋が社内を広がっていく。だがそれはまだ当事者たちの内部にある痕跡とは別物だった。

「見せて」陸也は言い、凛がぎゅっと抱えた扇を受け取った。扇は、小さな落款のように二人の手形の跡を残している。筆運びの痕、色の重なり。陸也は指先で紙の端を持ち、ゆっくりと視線を閉じた。彼の能力は読むというより扱うことで、対象を「扱う」過程で痕跡の質が浮かび上がる。触れると、紙の繊維から細い光の筋が立ち上がる。色の流れ、握った強さ、ためらいの温度。凛の胸の鼓動が一つの波線になり、悠斗の肩先が押した小さな刻印として残る。

だが――その光は不安定だ。陸也はいつも、小さなルールに従わなければならない。痕跡を確定させる言葉で縛れば、光は途端に白く固まり、形を失う。急ぎすぎる共同性は壊れ、痕跡は引き裂かれる。そこに触れる度に、彼自身の記憶の一部が霞む。小さな代償が囁くように胸の奥を撫でるのを、今日はより鮮明に感じた。

「見える?」凛が訊く。目の前の扇に指先を置いたまま、陸也は答える。

「見える。穏やかに進みたいって気持ちはある。本心は、悠斗も凛のことを大事にしたいって思ってる」

彼は短い言葉でまとめた。嘘ではない。だがまとめた瞬間、光は少ししぼんだ。確信を与える言葉の輪が、紙の上の色を蝕むような感覚がした。陸也はそれを深く息で押し戻した。だが既に変わったものは戻らない。扇の紙の端に、かすかな割れ目が入っていることに気づく。指の腹で押さえると、紙は湿気を含んだように軋(きし)んだ。

「それでいいのかな。穏やかに、で。本当にそう?」凛の声は弱い。

「俺が決めることじゃない」陸也はそう言ったが、言葉の端が震えた。代行を続ける彼自身が、いつもその一点で躓(つまず)く。誰かの気持ちを形にする仕事は、いつだって「誰が形にするか」という問いを生む。自分が形を整えると、仕上がったものは自分の手触りを帯びる。すると当事者の自由な手が少しだけ縛られる。陸也はその危うさを知っていた。

その時、テントの外から笑い声が聞こえた。中村梢がスマホを掲げ、志村真一と並んで歩いてくる。志村は実行委員長だ。顔は祭りの成功に満ちた汗で光っている。だがその胸ポケットには、今日のイベントを利用して得た「話題作り」の青写真が詰められているように見えた。

「見せてやるよ」志村は腕を組んだまま、凛の扇に目を落とす。とたんに、部屋全体の空気が変わった。志村にとって、恋の噂は祭りの付加価値だった。話題になれば写真は会社のアカウントでリツイートされ、指折りのイベントとして評価される。彼はその波紋を掌で操れると信じている。

「いい素材だ。SNSに上げた写真の反応はあっという間だった。もっと演出すれば盛り上がる」志村の声は歓声の先導のようで、凛の顔が固まる。

「演出って……」凛が小さく言う。扇を守るように抱えた手が震えた。

「ステージで二人にちょっとした――告白の演出をしてもらえばいいだろ? お客さんも喜ぶし、ウチの組織力を見せつけられる。営業にもプラスだ」志村は笑った。笑顔に含まれる算段が明瞭で、陸也は反射的に顎を引いた。言葉の下にあるのは、当事者の選択を奪う合理性だ。噂を消費するシステムは、弱い人の自由を簡単に消費してしまう。

凛の目に光が戻らない。悠斗を思ったときのあのやわらかい輪郭が歪んでいく。二人で作った扇が、いつの間にか演出の小道具にされようとしている。記念写真。拍手。SNSのハッシュタグ。陸也は指先の痺れを感じた。痕跡を扱う代価は、こういうときに重くのしかかる。

「やめてください」陳腐な言葉が凛の唇から出た。だが志村はもう耳を貸さないふうだった。中村がスマホの画面を見せてくる。そこには既に編集された短い動画があり、扇を持った二人の顔が丸くフレームに収まっている。テロップには「社内で始まる恋?」と書かれていた。

「これは祭りの演出です。誰かを攻撃するためじゃない」志村は言い訳が先走った。中村は楽しげに笑って、凛の肩をぽんと叩く。若い手つきだが、その一押しが扇の端を更に折らせた。紙の繊維に小さな断裂が走る。陸也の胸の奥が突き上げるように痛む。

彼は立ち上がり、テーブルの向こう側から自分の箱を取り出した。その箱には、共同制作物を一時的に保管しておくための柔らかな布と、小さな針金が入っている。陸也は無言で扇を包み、箱にしまった。彼の行為は、単なる保護ではなかった。痕跡を奪われるかもしれないその瞬間を遅らせるための行為だった。

「陸也さん」凛が手を伸ばそうとしたが、志村の隣に立つ中村が遮るようにスマホを掲げた。「これ、素材として使わせてもらいますね! 舞台も用意してるし、お客さんの反応次第で企画増やしましょう」

会話が祭りの喧騒に溶け込む。周囲の笑い声は、噂の波紋を更に広げていく。陸也はボックスの蓋を固く閉めた。布の感触が彼の指先に残っている。代償の冷たさがすでに広がっていた。痕跡を扱うたびに、彼の中から何かが薄れていく。子供の頃に夏祭りで買った綿飴の甘さ、初めて浴衣を着た日の背中の痒さ――そうした小さな景色が、彼の内側でぼんやりと消えつつある。いつか全部なくなるのではないかという恐れが、目の前の現実の輪郭を曖昧にする。

「これ、どうする?」凛が訊いた。声は途切れがちだ。彼女の瞳に宿る選択は真っ直ぐで、同時に