夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える
夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える 第3話「第2章」
夜風が屋上の蛍光テープを揺らすたび、紙のポスターが波打った。糊の匂いと、汗で湿ったTシャツの布地が擦れる音。祭り準備は深夜作業の常套句で、会社のビルの屋上に積み上げられた段ボールと色紙が、夜の闇にぼんやりと浮かんでいた。蛍光塗料を塗った掲示物が黒地に浮かび上がっているのを、燈は黙って見ていた。光は綺麗だ。綺麗に見せることが、いまは価値だった。
夜風が屋上の蛍光テープを揺らすたび、紙のポスターが波打った。糊の匂いと、汗で湿ったTシャツの布地が擦れる音。祭り準備は深夜作業の常套句で、会社のビルの屋上に積み上げられた段ボールと色紙が、夜の闇にぼんやりと浮かんでいた。蛍光塗料を塗った掲示物が黒地に浮かび上がっているのを、燈は黙って見ていた。光は綺麗だ。綺麗に見せることが、いまは価値だった。
「有栖川、そこにもう一枚貼ってくれ」広報課の課長、深見誠が梯子の上から指示を飛ばす。声は会社の評価軸そのものだった。端切れのように緊張の、一言一句が他人の仕事ぶりに直結する。
燈は慎重にポスターを位置に合わせ、両面テープを押さえた。指先に残る粘り気に、夜の寒さとは違う生温かさが紛れ込む。こうして「評判」が貼られていく。社内SNSのいいね数、来場者の写真、外注業者への評価。全てが「見られるための完成」を求めていた。
そこへ、川端瑞希が息を切らしてやって来た。肩にかかる髪が汗で束になり、頬には赤みが残っている。普段は控えめな彼女が、ぼくの前で呼吸を整える。
「燈さん……お願いがあるんです」
彼女の声は、小さく震えていた。祭りで使う行灯の内側に、こっそり入れる小さな手紙を一緒に作ってほしい、という。相手は同じ部署の風間遼。瑞希は昨日、彼とランチに行って以降、ずっとそわそわしているらしい。会社のうわさ目線が二人を消費する前に、彼女自身のやり方で何かを残したいのだという。
燈は一瞬ためらった。共同制作の瞬間にだけ残るという、ぼくの能力が働くかもしれない。二人で手を動かすことで、紙に微細な痕跡が刻まれる。相手の感情の断片が、匂いや温度、紙の折り方に宿る。だがぼくはそれを「読む」ことはできない。感じるだけだ。しかも、ひとつのルールがある——痕跡を早まって決めつけると、その気配は消えてしまう。共同制作を急げば、物理的に壊れて、何も残らない。
「一緒にやるのなら、ここでやろう」燈は低めの声で答えた。屋上の端、蛍光掲示物が背後で光る影の場所に小さな行灯を置く。瑞希は慎重に紙を広げ、小さな折り鶴を作るように手を動かした。二人の指が、同じ紙に触れる瞬間、燈の掌にごく薄い波形が届いた。温度というよりは「記憶の痕跡」に近い感触で、いつ誰かがこの紙を思ったのかが微かに残っている。
「……あったかいです」瑞希が呟く。彼女の指先も、ほんのり温かい。風が吹き抜けると、紙の端がかすかに震えた。
燈はすぐさま、内側にあるものを確認したくなった。視線が紙の表面に吸い寄せられ、感じた温度や匂いを確定させようとする。だがその瞬間、彼は心の中で止める音を聞いた。決めてはいけない。決めれば、そこにある可能性を朽ちさせる——。
それでも、口を開いてしまった。「瑞希、これは……彼も、きっと」言葉を投げると、掌の感触がふっと薄れていった。木目のように刻まれた温度の層が一段、剥がれる。瑞希の顔から笑みが消え、代わりに戸惑いが広がる。
「え、何がですか?」彼女の声が小さくなった。燈は自分の言葉が彼女の勇気を削いだことを即座に悟った。確信のために踏み込んだ瞬間、痕跡は隠れてしまう。ぼくの力は、確かめることを禁じていたのだ。
「ごめん、言い方が悪かった。今のは気にしないで」燈は取り繕ったが、瑞希はそれでも手を止められなくなっていた。余計に慌てたように、彼女は紙を折り畳み、千切れんばかりに速く結び目を縛った。
そのとき、深見の怒声が屋上に響いた。「有栖川、時間だ! 明日の朝には全部終わらせろ。社内での見栄えを第一で頼む!」
誰かのプレッシャーが、空気を震わせる。急げ、完璧に見せろ——その圧力は、ぼくたちの関係にも入り込む。瑞希は焦りを抱え、結び目をさらに強く締めた。糸が滑り、紙が裂ける音がした。小さな破片が手の中からこぼれ落ち、夜風に飛ばされていく。
「っ……!」瑞希の目に涙が溜まった。ちぎれた紙の端から、折り方の痕跡が消えていくように見えた。ぼくにはその喪失感が、胸の中で生臭く広がる。
「大丈夫?」隣にいた三木優里が、静かにその場に寄り添った。彼女は自分の作業を中断して、瑞希の手を取り、裂けた紙の向こうから新しい一枚を差し出した。三木はいつも強い。強さが、押し付けではなく、選ぶ力でもあることを、燈は知っていた。
「今は急がないで、瑞希。風間さんだって、ちゃんと自分で来るか確認したいはずよ」三木の声は低く、でも確固としていた。彼女は深見の指示を無視するつもりはないようだったが、ここだけは譲らないつもりだと分かる。自分の判断で誰かを守る、それが仲間の自主性だ。
燈は三木の行動に、どこか救われる気がした。急いで完成させて写真を撮ることで評価を稼ぐのではなく、作る過程そのものに意味を置くというのは、彼女の選択だ。共同制作は、時間をかければかけるほど細部が深くなる。焦れば焦るほど、紙は裂ける。これは物理の話ではなく、関係性の話だった。
翌朝、社内SNSは祭りのカウントダウンで沸いた。だが深見の投稿は、数字と写真の洗練された並びで、どこか味気なかった。いいねがすぐにつき、コメントが流れていく。祭りは「消費される祭り」になりつつある——燈はその匂いを嗅ぎ分けた。数が欲しい。見栄えが欲しい。それは、参加者一人ひとりの物語を薄める。
そして、もう一つの問題が明かされた。深見が夜明け近くに開いた小さなミーティングで、彼は耳障りのいい数字目標を示した。「今年はエントリーポイントが三万を超えないと、次の年の広報費を削る。来場写真のバイラル化を全員で狙う。個別の情感はいい。でも、指標が最優先だ」
言葉は機械的で、そこには人の迷いがなかった。制度としての「評価目線」が、個々人の選択を縛る。燈の胸の奥に、古い恐れがざわついた。自分の能力を使ってこの数字戦争に勝てば、多くの人が一時的に幸せになるかもしれない。だがその代償は、誰かの選択を奪うことになる。共同制作で残る痕跡は、自由に選び取られたものだけに意味があるはずだ。
その午後、燈は川端瑞希に呼ばれ、彼女のデスクの引き出しを開けさせられた。そこには、昨夜の裂けた紙とは違う、丁寧に折り直された紙が入っていた。瑞希は小さく笑って見せる。
「風間さん、昨日、わざわざ手伝いに来るって連絡くれたんです。今日の夜にもう一度、きちんと話すって。だから、今度は急がないで自分でやってみます」
瑞希の目は決まっていた。燈は心底ほっとした。彼女はぼくに助けを求めたが、最後は自分の足で立つことを選んだ。惰性で手伝うこともできただろう。けれど自分で進む選択をしたことが、何より守るべきものだった。
だが、祭りの外側からは新たな風が吹いてきた。社内SNSでのランキングを監視していた誰かが、夜中に匿名で重要な投票項目を追加した。それは「最も写真映えするブース」という項目で、上位のブースには翌日追加の予算が与えられるというものだった。評価を軸にした制度が、さらに身近に食い込んできた。
燈は画面を睨み締めた。選択肢が増えたのだ——自分の能力を使って、いくつもの共同制作に“痕跡”を刻み、社内で高評価を得ることはできる。多くの仲間を一時的に守ることも可能だ。だがそのやり方が、一人