夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える

夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える 第24話「第22章」

提灯の和紙は、夏の夜風にわずかに揺れていた。朱色の縁取りを伝う糊のにおい、火を入れたときに立ち上る煤の匂い——それらが混ざり合って、祭りの匂いになる。佐久間晴斗は、掌をその薄い和紙にそっと添えた。指先から伝わる温度はほとんどなく、ただ紙の繊維がざらついて肌に触れる感触があるだけだった。

提灯の和紙は、夏の夜風にわずかに揺れていた。朱色の縁取りを伝う糊のにおい、火を入れたときに立ち上る煤の匂い——それらが混ざり合って、祭りの匂いになる。佐久間晴斗は、掌をその薄い和紙にそっと添えた。指先から伝わる温度はほとんどなく、ただ紙の繊維がざらついて肌に触れる感触があるだけだった。

「晴斗、準備は?」宮原奈緒が隣で声を弾ませる。彼女の手には小さな筆箱と、まっさらな短冊が一束ある。髪を後ろで留めたきつめのゴムが、祭りの忙しさをものともしていないように見えた。

晴斗は喉を鳴らして、短くうなずいた。声はまだある。だが、指の腹はその場で「決断」を下すように震えている。能力を使えば、二人で共同して作った物だけに、その相互の気持ちの痕跡が残る。だがそれは不完全で、彼自身のルールがある──痕跡を決めつければ見えなくなり、急いで共同作業を壊せば痕跡は途切れる。代償は明白で、使用すると数時間、彼は声を失うことがある。今夜はもう一度、それを受け入れなければならない。

「里恵さん、来てるよ」奈緒が視線を顎で示した。藤堂里恵は提灯の列の向こうで、舞台装飾の確認をしている。黒いワンピースに作業用のベルトを締め、汗をかいた額をハンカチで拭っていた。彼女の手には、今日のために持ち込んだ小さな紙片があり、そこに何かを書こうとしている。

「木島さんがチェックに来るはずだ。個人メッセージは原則ダメ、ってルールがあるから」奈緒の声は慎重だった。木島綾は実行委員会の取りまとめを厳格にするタイプで、掲示物の内容を「祭りのイメージ」に沿わせることを至上とする。彼女の目は、評価の数字のように人心を測り、噂話を拡散することに長けていた。

晴斗は深く息を吸った。空にはまだ薄い雲が残り、遠くのスピーカーからは準備放送が繰り返される。屋台の焼きとうもろこしが焦げる匂い、子供の笑い声、金属の椀がぶつかる音。すべてが「祭り」になろうとしていた。

「里恵、ここで一緒にやってみる?」晴斗は声を伸ばして、いかにも自然に誘った。誘いの言葉は簡単だ。問題は、そのあとでどうするか──彼の手が何を見るのか、ということだった。

里恵はちらりと晴斗を見て、笑った。「うん、やろうか。誰かと一緒に作るの、初めてかもね」

二人が和紙を並べ、糊を伸ばす仕草を合わせた。共同で作業をするという単純な同時性が、彼にだけ意味をもたらす。晴斗はまっさらな和紙に指を滑らせ、里恵の指先と呼吸のリズムを合わせる。言葉を交わさずとも、二人の動きが揃えば、痕跡は生まれる。だがその過程を邪魔するものが多い。急かす声、スマートフォンのシャッター音、木島の監視する目。共同制作は、ゆっくりとした時間を必要とするのだ。

「おい、そっちは写真撮るなって言ってるだろ」木島の声が鋭く飛んできた。赤い名札が光る。彼女の後ろには数人の委員が並び、祭りの標準化を担う書類を持っていた。

「ちょっとしたメッセージならいいんじゃないですか?」屋台担当の中年男性が言った。評判やSNS映えを気にする声は多い。晴斗はそれを横目で見た。噂と評価はすぐに人の気持ちを消費する。自分の能力は、消費されることをいちばん怖れていた。

里恵は指を止め、短冊に何かを書き始めた。彼女の筆跡は細く、確かだ。晴斗はその横で、自分の右手を和紙の上にそっと重ねた。共同の触覚が重なった瞬間、いつものように細い熱線のようなものが指先を走った。痕跡の初期の感触──他人の呼吸とともに刻まれる何かを、彼はいつもより鮮明に感じた。

だが、その瞬間、左側の和紙の端に小さく、別の指紋が浮かんだ。濃度は薄い。三つめの指跡。晴斗の心臓が軽く跳ねる。共同制作は二人であることが原則のはずだ。三つめの痕跡が示すのは、第三者の関与。里恵が既に誰かと同じ物を触れたのか、あるいは誰かが後から重ねたのか。

「それ、誰の?」晴斗は声で確かめようとしたが、喉が引きついてまともに出ない。喉の奥に鋭い違和感が走り、金属が舌に触れたような味が口に広がる。果たして、今夜使用したときの代償が始まったのか。晴斗は内心で冷や汗をかきながら、静かに息を整える。まだ声を完全に失ってはいない。だが、何かが変わり始めた。

里恵は晴斗の視線の先を見て、眉を寄せた。「えっ、誰か触ってるの?」

「人の気配が……」晴斗は言葉を探すように唇をこすった。声はかすれ、短く出るだけだ。木島がこちらに一歩近づいて、目を細める。

「ええと、個人情報の扱いについては……」木島は公式文言で安全装置を作動させる。ルールと評価で世界を測る人間特有の冷たさが、そこにはあった。「誰かが無断で触れたら、取り外しの対象です。写真や記録も厳しく規制します」

その言葉が放たれた瞬間、会場のあちこちからスマートフォンのカメラが上を向いた。誰かがライブ配信を始めたらしい。映像が拡散されれば、痕跡は「見られる」ことで変質する。彼の能力は、見られること自体を嫌う。痕跡は共同制作の中でしか純粋な意味を持たないのだ。

奈緒が低く呟いた。「晴斗、どうする? 今やるなら、急がないで。ゆっくり……」

晴斗は目で答えた。──急いではいけない。決めつけてはいけない。だが三つめの跡がある以上、何も起こらないまま灯すわけにもいかない。彼は里恵の手を少しだけ引いて、自分の胸元に近づけた。二人の体温を近づけることで、共同のリズムを取り戻そうとする。指先の痕跡がどうであれ、今は目の前の現実に対処するしかないのだ。

里恵は困惑した顔をしたが、言葉を失いかける彼を見て、柔らかく微笑んだ。「一緒にやろう。誰がどうでも、今は私たちで」

その言葉に、晴斗の胸が締め付けられた。共同の承諾──それが痕跡を成立させる最後の鍵だ。晴斗はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。声帯の奥がピリピリと冷える感覚が走る。喉がつるりとしたかと思うと、音は消え、出るべき言葉が喉の奥で崩れ落ちた。彼は短く、しかし確かな気配で首を振った。声は薄れていく。

「晴斗、大丈夫?」奈緒が目を開いた。周囲の喧騒が一瞬遠くなる。晴斗は指で口元を押さえ、首をもう一度縦に振った。合図はこれで十分だった。言葉はなくとも、やると決めた。

二人は互いの指をより強く重ね、糊を伸ばす。動作はより細やかになり、時間はゆっくりと溶けるように流れた。里恵の肩に伝わる小さな震えを晴斗は感じ取り、それが彼女の不安であることを知った。共同作業は、相手の震えを受け止める時間でもある。晴斗は自分の不安を押し込め、ただ里恵の息に合わせて指を動かした。

和紙の上に広がる痕跡は、やがて微かな波紋のように立ち上がった。二つの指先が触れた場所に、光の粒子が集まるようにして模様が浮かぶ。晴斗はそれを、確かに感じた。だが同時に、三つめの指跡も消えない。薄く、しかし確かにそこにある。誰かが里恵とそれを共有した形跡。晴斗は手の中の重みを一瞬感じた──それは嫉妬のようなものではなく、選択肢の重みだ。

「誰の跡か、見えるか?」奈緒が筆で輪郭をなぞりながら訊く。晴斗は喉を嗄らせて音を出しかけるが、空気はただの息に変わる。言葉が出ないことの不便さが、突き刺さる。

彼は内側に集中した。痕跡は感覚の重なりである。名前を当てることはで