夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える
夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える 第13話「第12章」
朝焼けが町を薄い朱に染める時間、砂原希は畳の上で目を開けた。枕元の風鈴が、久しぶりに低く短い音を立てる。金属が擦れ合う細い音は、まだ昨日の声の残像よりも頼りなく、けれど確かに彼女の耳に届いた。喉の奥は砂を噛んだように乾き、声はまだ完全には戻っていない。指先で軽く喉を触れると、そこに残った痛みが朝の空気と混ざる。
朝焼けが町を薄い朱に染める時間、砂原希は畳の上で目を開けた。枕元の風鈴が、久しぶりに低く短い音を立てる。金属が擦れ合う細い音は、まだ昨日の声の残像よりも頼りなく、けれど確かに彼女の耳に届いた。喉の奥は砂を噛んだように乾き、声はまだ完全には戻っていない。指先で軽く喉を触れると、そこに残った痛みが朝の空気と混ざる。
「やれる?」と書いたメモを、希は枕元に置かれたノートの隅に残しておく。返事は文字でしかできない。だが窓の外では蝉が鳴き、準備の音が近づいてくる。今日は祭りの最終日、彼らが作った「共創の風鈴回廊」を完成させる日だ。希は身を起こし、畳の縁に座って深く息を吸った。湿った木の匂い、店先のだしの香り、浴衣を叩く音。祭りは人の体温で膨らむ。
会場は旧町会館の裏庭。すでに南条蓮が脚立に登って、回廊を支える竹の梁に糸を渡している。桜井梨花は手早く小さな紙片に絵を描き、糊を指で伸ばしている。高野遼は黙々と風鈴の取り付け位置を図り、輪の中で指先が迷子にならないようにする。希が到着すると、三人が同時に顔を向け、梨花が大きく手を振った。
「きみ、無理しないで。声出さなくてもいい」梨花が言う。希は唇を震わせて笑い、ノートに返事を書く。「指示は書く。触るのは私。急がないで、とだけ」
昼の空気は重く、汗が首筋を伝って落ちる。風鈴はそれぞれ色や模様を持ち、糸にぶら下がるだけで小さな群れのように揺れている。希の能力は相手の本音を直接読むのではない。二人が共同で作った物にだけ、気持ちの痕跡が残る。共同制作という条件はいつだって微妙で、ひとつの行為が強引に方向づけられると痕跡は濁る。だから希は「代行」ではなく「場作り」を選んだ。けれど今日、制度の圧は最後まで手を伸ばしてきた。
本部の窓口に立ちはだかったのは、西園寺誠だった。西園寺は会社から派遣された調整員で、規則と効率を経典のように持ち歩く男だ。胸に挟んだクリアファイルを指で摩りながら、彼は回廊の向こう側を見下ろしていた。
「これは公式行事の趣旨に合いません。社員の感情を消費するような展示は……」と西園寺が言う。彼の声には羨望も嫌悪も混ざらない。制度は感情を数値化し、分配する方が扱いやすいと思っているだけだ。
希は言葉を紡げない代わりに、ゆっくりと手を差し出した。言葉はいらない。触れて、確かめてほしい。西園寺の指先に向けたのは、完成途中の小さな風鈴だ。梨花が描いた花を中心に、二つの紙片が糸で結ばれている。これは事件の当事者である岸本悠馬と高田真理が、昨夜遅く、ぎこちなく一緒に作ったものだ。希はその結び目を指でなぞった。
西園寺は眉をひそめ、いらだちを滲ませる。「こんなものに意味があるのか。社内の掲示板のほうが、誰が誰を想っているか、はっきりします」
掲示板。噂とランキングのように消費する装置だ。希は掌の内で小さな震えを感じた。掲示板は確かに分かりやすい。だが分かりやすさは、選択の余地を奪う。事実の前にルールがあって、人はルールの方に流れてしまう。希は昨日、自分の手で誰かの決断を届けることをした。その代償は大きかった。数日間、声を奪われた。今日はもし何かを最後にするなら、その代償を超える覚悟がいる。
「希、説明して」蓮が言う。希は小さく頷き、指で風鈴を摘んで岸本と高田の方に差し出した。二人は互いに顔を見合わせ、ぎこちない笑いをした。岸本の手は少し震えていた。高田は呼吸を整えながら糸を掴み、紙と紙を合わせる。共同制作の条件は、二人の動きが同調することではない。互いが自分の手で、相手の存在を受け止め、その存在が物に刻まれることだ。希はただその光景を静かに見守った。
希はふと、自分の中に走る恐れを感じた。以前の彼女なら、ここで代わりに言葉を投げてしまっただろう。「私が言ってあげる」「こうしたらいい」そうして物は誰かの手に預けられ、痕跡は薄れた。今日は違う。希はゆっくりと両手を二人の手に添え、流れるように指を絡めた。共同の感触がつながり、糸が彼らの間に結ばれる。希は能力を発動する。痕跡は、触れた瞬間にわずかに熱を帯び、風鈴の鼓動が変わった。
その直後、希の喉に鋭い痛みが走った。声帯の奥が収縮し、かすかな違和感が喉全体を覆う。言葉が喉元で砕け、空気は抜けていった。希は顔を歪め、膝を折りそうになりながらも二人の作業を終えるまで手を離さなかった。糸が固く結ばれ、二つの紙が一つに重なると、風鈴はやわらかな音を立てた。その音は、昨日までのそれとは違って、二人の息遣いと汗と照れの残り香を含んでいるようだった。
「大丈夫か?」蓮が後ろから聞いた。希は首を振って答えようとしたが、声は出なかった。かすれた空気だけが漏れ、喉の奥は貝のように閉じたままだった。希はのけ反るように座り込み、手の震えを抑えた。西園寺の目がそれを見逃さなかった。冷たい口調が戻ってくる。
「体調不良か。こういう行事は安全が第一だ。中止を検討する」
だが風鈴回廊にはすでに、岸本と高田の風鈴が加わっている。隣のペア、隣の隣のペアと、糸は連なっていった。参加者は一組一組、自分たちの手で結び、言葉を書き、手汗を感じ、時には泣き笑いをしながら風鈴をぶら下げた。希の視界はぼやけ、頭の中で鈴の音が幾重にも重なる。誰かの声が遠く、だが確かに聞こえた。人々の選択は、掲示板の文字よりもずっと生々しかった。
西園寺は一瞬戸惑った。規則は数式のように整然と並んでいたが、人の手で織られた物は規則では割り切れない。高野遼がゆっくりと一歩出て、竹の梁に自分の背を預ける。彼は西園寺を見据え、低い声で言った。
「これを否定するのは簡単だ。でも、ここにいる人たちはただの記号じゃない。もし止めるなら、その理由をここに立って説明してもらう」
群衆の視線が西園寺に向く。会社の代表として彼は決断を下せる立場にあるが、その前に人は目の前にいるものを見てしまう。西園寺は数秒、沈黙した。風が一つ、回廊を抜け、無数の風鈴が合唱をした。鈴の音は訴えかける。やめる理由が、どんなに論理的でも、人の胸を動かせなかった。
「……わかった。手続きを踏んで審議しよう」西園寺は視線をそらし、言葉を選んでいた。決定の延期を選んだのだ。人々の小さな勝利の瞬間が、じわりと広がった。
その夜、祭りは最高潮に達した。回廊を歩く人々の顔が、風鈴の光に照らされていた。希は舞台の脇で椅子に座り、唇を噛みしめていた。喉はまだ声を拒み、飲み込むたびに痛みが走る。だが心の中では、何かが静かに変わっていた。彼女が引いた線で人の選択が滅びることはもうない。希は、自分の仕事は「代行」ではなく場を作ることだと、改めて確信した。
祭りの終わりに近づくと、回廊の中央に大きな風鈴が吊るされた。これは今日の夜の象徴になる筈の、共同制作の結晶だ。蓮が小さな台に乗り、来賓の前で言葉を紡いだ。希は聞く声に込められた汗の味を思い出して苦笑する。蓮は体の震えを隠そうとしながら、最後にこう言った。
「これからは、ここにあるものが人の選択を映す場になります。誰かが代わりに決めるのではなく、共に作る。失敗してもいい。壊れても直せる。そういう場を、僕たちは守ります」
拍手が起き、対岸から誰かが風鈴を