夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える
夏祭り実行委員会で片想いを代行する同僚は大人になりきれない夜を越える 第12話「第11章」
廊下の空気が、紙の匂いと汗の混じった埃で重かった。提灯の列が低い天井にぶら下がり、その柔らかな光が床の瓦目を擦るように流れていく。石田颯は指先に残る紙糊の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと一歩を踏み出した。後ろには三宅と早川、滝口が並び、彼らの呼吸が薄暗がりに小さく箱を叩くように響いた。
廊下の空気が、紙の匂いと汗の混じった埃で重かった。提灯の列が低い天井にぶら下がり、その柔らかな光が床の瓦目を擦るように流れていく。石田颯は指先に残る紙糊の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと一歩を踏み出した。後ろには三宅と早川、滝口が並び、彼らの呼吸が薄暗がりに小さく箱を叩くように響いた。
「藤堂課員はどこだ?」滝口が囁く。声は抑えているつもりでも、緊張で先に出る。
廊下の突き当たり、薄いガラス越しに見える応接室の中で、藤堂がひとり座っている。書類の山を押しのけ、膝に置いたコーヒーカップの縁で指を回していた。提灯の光がガラスに反射して、彼の横顔に小さな影を刻む。影の中で藤堂の口角がわずかに下がり、眉間のしわが浮いた。
颯は手の中にある小さな提灯を確かめた。あの日、委員会全員で一晩かけて色を重ねた紙張りの提灯だ。共同制作した物にだけ「痕跡」が残る——それが彼の持つ不完全な能力の核だった。提灯を軽く握ると、かすかな温度が指先に戻ってくる。共同して手を動かした夜の汗と、誰かの息遣い、声のひっかかり。そこにほんのわずかな、言葉にならない痕跡が宿っていた。
「来たか」藤堂の声は低く、乾いていた。ガラスの扉が開くと、廊下の風が一瞬提灯の光を揺らした。藤堂は立ち上がり、颯の顔をまっすぐ見た。彼の目には苛立ちだけではなく、どこか焦燥が混ざっている。
「あなたたち、勝手に祭りをやるつもりか?」藤堂が言う。言葉の背後にあるのは命令ではなく、制度の鉄板のような確信だった。「広報課の指示だ。公式イベントで不確かな表現を公開するのは——評価にも影響する」
「評価のために、個人の気持ちを測ろうとするのはおかしい」早川が返す。彼女の声は細いが揺れていなかった。「評価で人を縛るなって、私たちはずっと言ってきた」
藤堂は唇を噛んで、作っていたシナリオをなぞるように答えた。「家族を食べさせるためには、組織で正しく回すしかない。評価がないと、俺の部署には予算も、業績もつかない。そうすると、うちの者たちに影響が出るんだ。お前らの言う理想は、食うに困っている者を救わない」
その声に、颯の胸がぎくりと締めつけられた。藤堂は単なる敵ではない。彼の言葉が、かつて自分が抱えていた恐れの鏡になっていた。大人の選択と称して、誰かの自由を奪っている自分——颯はその恐れを知っていた。だからこそ、彼を単純な悪として斬り捨てることはできなかった。
颯は提灯を前に差し出した。「これは、共同で作ったものだ。触った人の痕跡が、そこにだけ残る。評価用のデータベースみたいに、勝手に数値にして差し出すことはできない」
藤堂は冷笑を浮かべた。「そういえば、あんたはそういう“奇妙な力”があるんだったな。証拠が出たら公務に支障が——」
颯の手の中で、提灯がかすかに鳴った。紙が微かに擦れる音。彼は思い切って、力を使ってみた。共同制作の痕跡を引き出す——それはいつも慎重さを要する作業だ。颯は触れた指先から、かつて一緒に笑ったときの声の残り火を拾おうとした。だが、念を込めて“これはこの感情だ”と決めつけようとした瞬間、視界が濁った。
色が溶けて、痕跡が一つの単語に押し潰される。怒り、優しさ、諦観、全部が喧しく一つのラベルに寄せられていく。颯は息を詰め、手を引いた。頭の奥が冷たくなり、胸の中の温度が下がる。決めつければ決めつけるほど、何も見えなくなる——彼の能力はそんな代償を取った。過去に幾度も、誰かの気持ちを“判定”しようとして失敗したときのあの悪寒が、今でも鮮やかに戻ってくる。
「無理か」藤堂が問う。声に狡猾さはない。疲労と、自分の選択を正当化したいだけの必死さが混ざっている。
颯は首を振った。「決めつけたら、何も分からなくなる。あんたの不安を『評価のため』って一言に押し込めることはできない。けれど——」彼は深く息を吸った。「共同で作った物には、ただ残る。誰かが触れて、誰かが混じって、そのままの形で。俺がそれを公的な数値に変えることはしない。けど、みんなの選択で、形を変えられる」
三宅が前に出た。彼の手には工作用の糸とハサミが握られている。三宅は低い声で言った。「なら、形を変えよう。ここで公式に掲示するんじゃなくて——」
「みんなの手で渡すんだ」早川が続ける。提灯が伝える痕跡は、誰かに押し付けられるものではない。渡されることで初めて、受け取った人の意味になる。評価制度は、定量化して測ることで人を管理してきた。だが提灯を一つ一つの手で灯し、選んだ人が受け取る——その行為自体が制度を回避する。
しかし、それは同時にリスクでもあった。公務員としての立場、広報課の監視、評価の点数——誰かが責任を負わされる可能性がある。特に藤堂は、そうした“責任”を背負っている当事者だ。颯は藤堂の顔を見た。疲れた目の奥にある、子供の写真を思い出す。昨夜、庁舎の掲示板の前で彼がこっそり見せたスマートフォンの待ち受け写真だ。そこに写る小さな笑顔が、今も耳元で鳴っている。
「もし、これを公にするなら……俺は止めなきゃいけない」藤堂は言った。「──それでも、家族を失いたくないんだ」
颯はじっと見返した。相手を責めるのは簡単だった。だがそれは、彼が避けてきた“支配の輪”と同じ行為だ。彼は眼差しを和らげ、低く言った。「俺は誰かを潰してまで正義を掲げるつもりはない。だけど、あなたの家族を守る方法は、評価だけじゃない。俺たちも、あなたの立場を奪いたくない。だから提案がある」
颯は手の中の提灯を開いて、紙の裏側に小さなスリットを入れた。その隙間から薄明かりが漏れ、藤堂の顔がさらに柔らかく浮かんだ。「この提灯は、あなたが取るなり。けれど、もしあなたが本当に誰かのために選ぶなら——この光を渡す側に立つこともできる。あなたが守る人たちを守る方法を、違う形で示せる」
藤堂の目が揺れた。彼は窓の外に目をやり、遠くで祭りの屋台の灯が揺れるのを見た。人影が群れ、人の匂いと揚げ物の油が通りを彩る。評価のスコアの数字が、そこには一切無い。藤堂の手が震えた。どちらを選ぶかで、今夜のいくつもの人の夜が変わる。
その時、滝口が低く言った。「俺たちがやるよ。責任は皆で取る。誰か一人が食われるのは嫌だ」
言葉は静かだったが、重さがあった。三宅は提灯を抱えて階段を駆け上がるように立ち上がった。「公式の掲示板に出すような手続きは踏まない。私設で配る。職場の名簿も使わない。誰がもらうかは、その場の選択で決めよう」
一瞬、藤堂は口を開きかけたが、やがてゆっくりと息を吐いた。目に一筋の光が差す。決断が下されたのだろうか。彼は自分の胸ポケットから折りたたんだ写真を取り出し、颯に見せた。そこには小さな子供が、満面の笑顔で風船を握っていた。藤堂はそれをぎゅっと握り締め、またしまい込む。
「わかった」彼は短く言った。「部としての対応はする。だが、個人としては——それを邪魔しない。結果については、個々で責任を取れ」
その言葉に、早川が小さく頷く。滝口も三宅も、黙ってそれを受け取った。颯は胸の奥が熱くなるのを感じた。藤堂が完全に味方になったわけではない。それでも、彼は少なくとももうただの阻害要因ではなく、ある種の同盟に