ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第8話「第7章」

夜の局舎は、ラジオの声が止むと急に小さくなった。機材のインジケータが冷たい青で脈を打ち、廊下に残るコーヒーの匂いが静寂を埋める。広報室の蛍光灯は半分だけ消えて、綾音はキーボードに指を置いたまま、ちらりと視線を外した。画面の向こうには、局の「評価掲示盤」が薄く浮かんでいる。数字と評価がスクロールするそれを、彼女は守らなければならないはずだった。

夜の局舎は、ラジオの声が止むと急に小さくなった。機材のインジケータが冷たい青で脈を打ち、廊下に残るコーヒーの匂いが静寂を埋める。広報室の蛍光灯は半分だけ消えて、綾音はキーボードに指を置いたまま、ちらりと視線を外した。画面の向こうには、局の「評価掲示盤」が薄く浮かんでいる。数字と評価がスクロールするそれを、彼女は守らなければならないはずだった。

しかし、机の上に置いた小さなボイスメモから、鈴倉の早口の声が流れた。

「綾音、今からやるって伝えておいたから。リスナーが動いてくれるよ。名前を出さないって条件でやるってさ。深山さんも了承してるって」

綾音は手を止めた。画面の光が指の先で波を立てる。メモを指で止めると、空気が近く感じた。自分が守るもの、守り方。頭の中でいつも鳴るその問いが、今夜は重かった。

一方、地下のサーバールームでは黒石がはんだごてを握っていた。機器に近い熱と、古いラックが放つ金属の匂い。彼は誰にも見せない表情でコマンドを打ち続けている。モニタに映るのは評価掲示盤のデータフロー。名前はIDに置き換えられ、見えない線で結ばれている。彼はその線を引き剥がそうとしていた。

「透明にするだけだ。誰が誰だかじゃなく、どう動いているかを見せればいい」

黒石は小声で呟く。彼の指がEnterを押す瞬間、監視のログが一瞬赤く光った。背筋がぴんとした。危ない橋だ。だが彼は引かなかった。表示のフィルタをいくつか外すと、匿名のエントリと結びつくメタデータの構造が見えた。そこには、スポンサー評価、上層部の関心度、過去のペナルティ履歴が層になっていた。匿名という皮を被った「評価」が、実は組織と金の利害で編まれている。

彼は画像をキャプチャして、綾音に送った。そこに添えられた短いメッセージは、いつもの彼らしく無骨だった。

「これ、見て。これが表に出れば、局の外にいる人たちに説明できる。だけど爆弾扱いだ。どうする?」

綾音は返信を打ちかけてやめた。言葉がうまく出てこない。局を守るというのは、単に数字を隠すことではない。守られた側が次に選べるようにすること。彼女の胸に、いつもその考えがあった。だが仲間たちは彼女の判断を待たずに動いている。それが彼女を孤立させているようでもあり、逆に考え直す余地を与えているようでもあった。

鈴倉は外でリスナーと会っていた。公園のベンチに座る若者の手のひらには、手書きのフリーペーパーとスマホに入った短い口笛の音声があった。彼らは笑いながらそれを繋ぎ合わせ、小さなジングルを作っていた。紙に書かれた「一緒に作るだけでいい」という一行が、確かに温度を持っている。鈴倉はそれを写真に撮り、綾音にも送った。

「これが痕跡になるって信じてる。名前は要らない。ただ、手が触れたものにだけ残るやり方で。綾音、あなたの力、今こそ試してみてくれない?」

綾音は深く息を吸った。彼らの動きは、彼女が望んだものでもあり、怖れでもあった。彼女の力は測定でも読み取りでもない。二人が共同で作ったものにだけ、感情の痕跡が残る。だが決め付ければ見えなくなり、急げば壊れる。言葉で説明するより、彼女にはそれを実際に示す必要があった。

彼女はスタジオに向かった。深山がミキサーの前に座っていて、今夜の特番の原稿を手直ししている。彼の指先には小さな裂け目があり、眉間には疲労の線が走っている。綾音は、先ほどのボイスメモやキャプチャを思い出しながら、深山の横に座った。

「今夜、ライブでやるのか?」と綾音が訊くと、彼は顔を上げ、穏やかに笑った。

「ああ。リスナーと一つの曲を作るって約束した。名前は出さない。僕は……それでいいと思う」

彼の声は静かだった。綾音はその声に触れたい衝動と同時に、守らなくてはという思いが湧いた。だからこそ、彼女は自らの能力を使って、二人で作ったテスト素材に触れてみた。深山が残したハミングと、彼女が以前に夜中にまとめたプロンプト。二つを合わせたUSBを綾音はミキサーに差し込んだ。

感触が来た。ほのかな熱、かすかな震え。深山の決意と、夜の疲労が混ざったような、込み上げる気持ちが指先に残る。綾音はそれを確かめたくて言葉を乗せた。「これは決意だね」と自分が思った瞬間、感触は掻き消えた。まるで煙を掴もうとしたときのように、痕跡は透明になった。

彼女の心臓が一つ大きく鳴った。痕跡は彼女の「これだ」と決める声音を嫌う。決めつけた瞬間、痕跡は自衛するように消える。綾音は両手で顔を覆った。急ぎすぎれば共同制作は壊れる。だが今、壊れたのは物理的なものではなく信頼だった。深山は、自分が何かを失ったような顔をした。

「綾音、どうした?」深山が訊いた。

綾音は首を振って、短く笑った。「ごめん、ちょっと疲れてるだけ。私がやるべきじゃないことをしてしまった」

その瞬間、綾音のスマホに黒石からの写真と短い動画が届いた。評価掲示盤の表示に、運営本部からの警告メッセージがオーバーレイされている。匿名セグメントを増やすならば、放送免許の見直しやスポンサー契約の再検討が行われる、と冷たい文章が並んでいた。黒石のメモには一言、「これは本気。やられたら局が揺れる」と添えられていた。

深山の顔色が変わった。彼は自分の原稿を机に叩きつけるようにして立ち上がった。「ならば俺がやる。今夜、予定通りやる。名前を出さないって約束は守る。でも、もし局が揺れるなら、その責任は俺が取る」

綾音は言葉を探した。守るということは、盾になって戦うことばかりではない。守る側が過保護になれば、守られる側の選択肢を奪うことがある。深山の決定は、それを突きつけた。彼は自分で立つと決めたのだ。

「待って」と綾音は言った。「一つだけ条件がある。共同制作に入る人たちに、本当に匿名を守る意志があるか確認させて。私が全部やるんじゃない。あなたたち自身で次を決められるようにする」

深山はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。「わかった。お前のやり方でやってみろ。だけど、局の中で、俺だけが危険に晒されるのは嫌だ」

そのとき、鈴倉がランニングで局に戻ってきた。顔を赤くして息を切らせながら、スマホの画面を綾音に差し出す。リスナーたちのスレッドが瞬く間に広がっている。匿名の参加表明、手作りの音素材、手書きの紙切れの写真。人々は既に動き始めていた。鈴倉の目に光が宿った。

「綾音、もう待ってられないって。みんな、ただ一緒に作りたいだけだった。名前は要らないって言ってる。これを局でやらせてほしいって」

綾音は画面に映る無数の小さな手の動きを見つめた。彼らの一つひとつには温度がある。それは、彼女の能力が本当に求められている場面でもあった。だが、黒石の提示した警告は重い。匿名を守るための仕組みを整えなければ、局も、参加者も傷つく。

綾音は決めた。自分一人で盾になるのではなく、仕組みを作ることでみんなが自分の意思で選べるようにする。彼女は深山に近づき、静かに告げた。

「今夜、ライブをやる。だけど形は変える。参加者は匿名のまま、でも痕跡は共同制作の中だけに残る仕組みにする。そのために、評価掲示盤と局のルールに切り込む。公開するかしないかは皆で決める。でも