ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第7話「第6章」
深夜の局舎は、人の気配だけを残して息を潜めていた。フロアの明かりは半分が消え、残りの蛍光灯が冷たい白を落としている。アナログのアーカイブ室はその最奥にあり、金属の棚に収められたテープの箱が規則正しく並んでいた。テープの匂いは、古い紙と油と湿り気を混ぜたようで、綾音の胸にいつも馴染み深い安心と倦怠を同時に突きつける。
深夜の局舎は、人の気配だけを残して息を潜めていた。フロアの明かりは半分が消え、残りの蛍光灯が冷たい白を落としている。アナログのアーカイブ室はその最奥にあり、金属の棚に収められたテープの箱が規則正しく並んでいた。テープの匂いは、古い紙と油と湿り気を混ぜたようで、綾音の胸にいつも馴染み深い安心と倦怠を同時に突きつける。
「ここでやるしかない」蓮が小さな声で言った。蓮は夜の編集室に常駐する音響技師で、綾音とは仕事仲間以上に〈局の守り手〉という共犯意識を共有していた。蓮の手は、古いリールテープの金属スプールに触れて、静かに回す。指先の冷たさと金属の振動が綾音の掌に伝わる。
綾音はマイクの前に座り、手元のノートを閉じた。今夜の目的は、漏出した資料と彼女が当時対応した炎上の「仕込み」が意図されたものかどうかを、能力で確かめることだった。能力は言葉で説明しにくい。誰かの本音を覗くのではない。二人が共同で作った物にだけ、二人の気持ちの痕跡が残る――その痕跡の揺らぎを読むことができる。だが、痕跡を決めつければ決めつけるほど見えなくなり、関係を急げば共同制作が壊れる。綾音はそのルールを何度も痛いほど学んでいた。
「綾音、今からいくよ。でも――」蓮の声にはいつもの冗談混じりの軽さがない。彼はモニターのフェーダーを下げ、編集機の再生キーに指をかける。映写室の冷気が、二人の呼吸の白を幻想のように浮かべた。
録音を再現するため、綾音は蓮と同じ台本を読み上げた。元の放送の台詞ではなく、彼ら自身の言葉で「再演」をつくる。その共同制作物が、当時の関係の痕跡を連れてくるはずだ。二人の声がマイクに入る。蓮が、綾音が、時折顔を見合わせて相手の息遣いを確かめる。共同で作るという行為が、痕跡を生む前提である。
「――あの夜、局は何を求めていた?」綾音が問いかける。問いは、局という巨大な機構の顔を盗み見たいという個人の問いだった。彼女は答えを先に決めたくない。だが、胸の奥にある不安が言葉に色を付ける。
蓮はためらいなく言葉をのせた。「評価だ。数字、バズ、リスナーの反応。生き残るための尺度だよ」
二つの声が重なり、テープに刻まれる。綾音はその刻印を覗き込む準備をする。視界の端に、テープ上の波形が黒い山となって現れる。波形には確かに何かが埋め込まれているように見えた。だが、その瞬間、綾音は自分の心の中で先に「仕込み=悪意ある演出だ」と決めつけてしまった。確信は、能力にとって毒だった。
波形は、音のように見えるはずが、じりじりと溶け始める。輪郭がぼやけ、黒が薄い灰になっていく。綾音は慌てて呼吸を整える。決めつければ決めつけるほど、痕跡は消える。頭の中で警告音が鳴るような気がした。
「決めつけちゃダメだ」蓮が低く囁く。だが、二人とも分かっている。時間がない。漏出資料をめぐる騒ぎで、局の幹部はアーカイブからデータを削除しようとしているという情報が入っていた。データが消える前に、何かを掴みたい。焦りが二人をせき立てる。
綾音は息を深く吸い込み、もう一度やり直した。だが今度は違う。彼女は解釈を押し付けないように、声のトーンを抑え、蓮と交互に短いフレーズを積み上げる。時には黙ってリズムだけを合わせる。共同で作る行為自体を、崩さないようにするのだ。やがて、細かい振動が波形に戻ってきた。そこに残っていたのは、予想外の小さな痕跡だった。
「笑い」と「気遣い」が混ざった、短い吐息の断片。誰かがしゃべりながら笑いを堪えるような息づかい。意図的な演出ならもっと計算された拍が残るはずだ。だがこの痕跡はむしろ生々しく、誰かがその場で慌てて対応している匂いがする。計画的な仕込みとはニュアンスが違った。
蓮は眉を寄せた。「これだけじゃ決められない。だけど、"計画"じゃなくて"修正"だ。誰かが意図して作った場面を、急遽つなぎ合わせたような、そんな感じだ」
綾音の胸がざわついた。修正――。それは、序盤に彼女が感じ取った「失敗」とは違う意味を帯びる。局は演出のために炎上を作ったのか、それとも作られたものをその場で繕ったのか。二通りの責任は、責任の重さも異なる。
「急ぐな、綾音」蓮の手が彼女の肩をそっと押した。だが焦りは物理的な力で押さえ込めるものではなかった。綾音は急いでいた。急いで答えを出さなければ、幹部が資料を消し、真実は闇に葬られるかもしれない。だが焦りは共同制作の糸を切る。
無理をした代償は、すぐに現れた。編集機のキャプスタンが不意に急停止し、テープが引き攣った。金属が擦れるきしむ音。蛍光灯が一瞬明滅し、綾音の耳の奥に高い金属音が鋭く刺さった。頭の芯がヒリヒリと痛む。胸の奥から何かが引き剥がされるような感覚に襲われ、言葉が喉を通らなくなった。
「大丈夫?」蓮が慌てて駆け寄る。だが綾音は返事ができなかった。口を動かそうとしても、音が出ない。舌先から言葉がこぼれ落ちる代わりに、記憶の一片が抜けるような感覚がした。幼い頃、父とラジオを聞いた日曜日の記憶――その日の夕食の匂い、テーブルに並んでいた皿の配置。綾音はその細部を、まるで誰かの手で擦り取られた写真のように失った。
「声が――」蓮の声が遠く、小さく震えた。綾音は手探りで名札を掴み、指先が冷たく震えるのを感じた。能力を使った代償が、記憶の断片を奪う形で現れたのだ。彼女は頭の中で警告を反芻する。能力は媒体から気持ちを引き出すが、代価として何かを差し出させる。彼女の差し出したものは、たまに「記憶」だった。
「今のは……やりすぎた」蓮は低く呟く。彼は責任を感じているが、他方でアーカイブ室のドアの外、遠くのフロアで人声がする。誰かが夜の勤務を交代で見に来るつもりだ。時間は刻一刻と迫っていた。
そのとき、編集室のドアが勢いよく開いた。島崎局長が現れ、背後に牧野プロデューサーを連れていた。島崎の顔は疲弊しているが、その目は冷たかった。牧野は綾音の横顔を見て何かを悟ったか、口元に苦い笑みを浮かべた。
「深夜に何をしている、綾音か」島崎が言う。言葉の端に非難はない。だが、事務的な圧が確かにそこにある。彼らは「局の管理」を代表している。
綾音は口を開こうとしたが、声はまだ戻らない。彼女はノートパソコンの画面を指で触り、再生されている波形を示した。島崎の目が動く。牧野の顔が緩む。短い沈黙の後、牧野が静かに言った。
「私が、編集局に入れた。あの夜のログ。だが、本当に伝えたいのは"誰が"じゃないかもしれない。どうしてそういうことをしなければならなかったのか、ってこと」
牧野の言葉は重かった。彼は自分が仕切ったかのように見えるが、面差しには責任以上の疲労が刻まれている。「私たちは守るために嘘をついた」彼は続ける。「でも"守る"という名目は、誰かの選択を奪ってきた。もっと深いところに、指示系統がある」
その瞬間、綾音の手元のモニターで、先ほどの波形の裏に別の音声が存在することを示す小さなフラグが点滅した。蓮が気づいて指を差す。細いタグが示すのは、内部通話のログだ。ログは、放送部とは別の部署――企画総務の端末から発信されていたという時間コードを含んでいた。
「局長、これ……」蓮が言いかけると、島崎は