ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第6話「第5章」
朝礼が終わったばかりの会議室はまだ人の気配で温かかった。壁のモニターに映る昨日の視聴率グラフが、午前の光に鈍く反射している。綾音は胸の奥の疲労を棚に載せるようにして、テーブルの上に並べられた小さなパンフレットに手を伸ばした。紙のふちに残る指紋、乾いた糊の匂い、消えかけの鉛筆の線。全部、昨晩三人で作ったものだ。
朝礼が終わったばかりの会議室はまだ人の気配で温かかった。壁のモニターに映る昨日の視聴率グラフが、午前の光に鈍く反射している。綾音は胸の奥の疲労を棚に載せるようにして、テーブルの上に並べられた小さなパンフレットに手を伸ばした。紙のふちに残る指紋、乾いた糊の匂い、消えかけの鉛筆の線。全部、昨晩三人で作ったものだ。
「いい出来だよ、綾音さん」
宮園美羽の声はいつもより落ち着いていた。手に持ったパンフレットを胸の高さで抱える仕草が、どこか子どもめいている。隣の紺野景は笑っているが、目が少し泳いでいた。二人は普段、放送の上では自立したパーソナリティを装う。だが今朝は、あの夜の作業が残した温度をまだ引きずっている。
綾音は自分の能動を口に出さない。共同で作る──それが彼女の能力の条件だった。二人が同じ時間、同じ作業、同じ決断を少しずつ重ねることで、紙に「痕跡」が残る。痕跡は情報でも言葉でもない。ふっと伝わる居場所のようなもの、誰にも見せたくない二人だけの合図だ。彼女はその合図を感じ取り、外からの侵食をかわすための盾にする。
「上層はこれをどう見るかしらね」と紺野が小声で呟いた。彼はいつも綾音の表情を読む。あの夜、二人がページのレイアウトで揉めたときも、彼が間に入ってくれたから形になったのだ。
綾音はパンフレットに触れる。紙は薄く、糊の跡にわずかな熱がある。指先に伝わるのは二人の微かな同期。美羽が選んだ色味、紺野が書いた短いメッセージ、彼らが昼過ぎに交わした冗談の余白──全部が重なって、一つの「居場所」を作っていた。綾音の内部でその居場所は音になって鳴った。小さな、しかし確かな共鳴。外からの嗅ぎ回りを撥ね返す布のように、パンフは彼らを包んでいる。
「これを、局の広報資料として配ります」と綾音は静かに説明した。「番組の地域イベント用の手作りパンフとして。個人の私生活を暴くような使い方はしません、と明記します」
会議室の空気が一瞬、変わった。営業担当の声が前のめりになりかける。だが、資料の最後の一行──「制作は出演者と局広報の共同制作です」──が、どんな詮索にも一線を引いた。綾音はそれだけで満足した。小さな勝利だ。噂を商品化しようとする波の前に、小さな堤防を築いたような感触。
だが、勝利の余韻は長くは続かなかった。
昼過ぎ、宣伝部のドアが荒々しく開いた。高瀬編集長だ。彼の顔に入った影は、朝の光より深かった。高瀬は数字にゆがめられた人間だった。だが今日はいつになく言葉が穏やかで、そこにあるのは怒りより疲労だった。
「綾音君、見せてもらおう」
綾音はパンフレットを差し出した。高瀬はページをめくる。指先が紙の温度を確かめた瞬間、綾音の胸が締めつけられる。高瀬の視線の先にあるものは、彼女には見えない。だが彼は経験で生きている。売れるもの、話題になるものを一目で嗅ぎ分ける嗅覚を持っている。
「これ、データにできるか?」高瀬が言った。「放送用の素材にする。ただの紙媒体じゃ意味がない。視聴者の関心を数値化して、広告に回したい」
綾音の手が微かに震えた。共同で作ったからこそ守れたものを、数に変換するという要求だった。彼女は一度だけ、触れるように言った。
「痕跡は、共同で作られたものだけに残ります。コピーやデータ化で持ち出すと、性質が変わります」
高瀬は笑ったように肩をすくめる。「職業としては無理だ。局は金が必要なんだ。君も分かっているだろう?」
その言葉の中に、違う色が混じっている。高瀬は続けた。目に見える怒りの代わりに、説明が入る。
「三年前、うちの部署で似たような話があった。若手の企画が炎上して、出演者の私生活が壊れた。あの時だって理想はあった。だが、現実は社員の生活を支えない。私がやったのは、話題を作るルールを整えることだ。無秩序の暴走よりは、管理された暴力のほうが、まだ 피해者が出にくい」
高瀬の声はかすれていた。彼は悪意だけで動く人間ではない。損なわれた食卓代わりに、秩序を作ろうとしている。綾音はそこに同情を覚えたが、同時に自分の中の防壁が脆くなるのを感じた。
「じゃあ、試験的にデータ化してみたい」と高瀬は提案した。「君はそのままの形で」と彼は綾音を見た。「どこまで守れるか、実験してほしい。もし守れないなら、我々はもっと露骨な手段に切り替える」
実験。綾音は言葉の冷たさを噛みしめた。守るための方法が試験台にされる。だが拒否すれば、もっと大きな嵐が来るかもしれない。綾音はパンフレットを強く握った。
夜、三人で再び制作室に集まった。蛍光灯が白く、作業台には残りの材料が散らばる。綾音は息を吸い、今度は自分の役割を明確に言葉にした。
「ゆっくりやる。手順を守る。私が外部の介入を遮ります。だけど、もし誰かが『これ、こうでしょ』と決めつけたら、痕跡は消えます」
二人は黙って頷いた。作業はゆっくりと進んだ。美羽が布の端を切ると、紺野が糊を塗った。互いに手渡すとき、必ず「どうする?」と確認を挟んだ。一度だけ、紺野が急いで中心に寄せる提案をした。綾音が即座に止めた。
「待って。もう一度合わせて」
時間をかけることで、紙は答えた。糊が乾く速度、インクの滲み、二人の呼吸が作る間──それらが積み重なって、指先にまた微かな共鳴が戻る。綾音はその感触を胸に留めた。周囲に流れる空調の低いうなり、古いマイクロフォンの金属の冷たさ、小さく鳴る時計の秒針。共同制作の時間は、ぎりぎりまで外を遮ってくれた。
だが試験の代償はすぐに来た。
高瀬は翌朝、制作室にデジタルスキャンのチームを連れてきた。パンフレットを高解像度で取り込み、紙の表面の微細な凹凸や糊の分布を数値化しようというのだ。綾音は反対したが、局の上からの命令には従わざるをえない。彼女はただ、最後の防衛をするつもりでいた。
スキャンが始まった瞬間、パンフレットの表面にあった温度が薄れていくのを感じた。データ化という暴力は痕跡を「解析」しようとする。綾音は手を伸ばして紙を撫でた。抵抗だ。だがモニターに映し出された画像が拡大されるにつれ、指先の共鳴が薄れていくのがわかった。美羽の顔が青ざめる。紺野の唇が固まった。
「決めつけるな」と綾音は自分に言い聞かせた。だが誰が「決めつけ」をしているのか。画面の数値が二人を取り出し、誰がどう感じたかという選択をしようとしている。綾音の内部で何かが弾けた。痕跡が逃げるときの、鋭い痛み。頭の奥で針が回るように、視界が微かに歪んだ。その衝撃で、紙の端がピリッと裂けた。
紙は裂けた瞬間に、二人の中のある場面を奪った。作業中に交わした一言、互いに照れてしまった瞬間の笑い声、指が重なったほんの一瞬──紺野が急に目を細め、何かを探すように眉間を寄せた。美羽は涙ぐんでいる。二人は同時に何かを失ったことを悟った。
「ごめん……」綾音は声にならなかった。自分の過失ではない、と言い聞かせるのに十分な理屈はあった。だが身体は正直だ。頭痛が波のように押し寄せ、腕がしびれる。綾音は膝をついて、呼吸を整えた。誰にも見せたくなかった脆さが露呈する。
高瀬は無言で、モニターを消した。空気が冷たくなった。彼はゆっくりと椅子に腰かけ、