ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第5話「第4章」

冷たい蛍光灯が天井を染める放送局の夜勤ホールに、まだ温かいコーヒーの香りと焦げた紙の匂いが混じっていた。指先でマウスを転がしながら、綾音はモニターの波形を見つめていた。白い背景に浮かぶ黒い線が、先ほどの短い共創放送の音声を静かに語っている。しかしその波形の端──最後の十数秒だけが、みるみる薄くなっていく。

冷たい蛍光灯が天井を染める放送局の夜勤ホールに、まだ温かいコーヒーの香りと焦げた紙の匂いが混じっていた。指先でマウスを転がしながら、綾音はモニターの波形を見つめていた。白い背景に浮かぶ黒い線が、先ほどの短い共創放送の音声を静かに語っている。しかしその波形の端──最後の十数秒だけが、みるみる薄くなっていく。

「おい、有馬、これ見てくれ」

有馬はディレクターの癖にデスクに肘をつき、眠そうな目でモニターに近づいた。彼の指は薄く震えていて、夜の疲労が顔に刻まれている。

「消えてるな。録音ミスか? 真鍋、マスター残ってるか?」

真鍋は技術の男で、耳に古いヘッドホンを下げたままケーブルの束を弄っていた。彼は素っ気なくキーボードを叩き、録音ログを呼び出す。ファイル名はいつもと同じ命名規則で並んでいる。綾音は自分の名前で保存されたプロモーション原稿のファイルを見つめると、背中をぞくりとされた。

「ファイル上は完全に残ってる。でも……最後のトラックだけ、波形が消えてる。データとしてはあるんだけど、再生すると──」真鍋がヘッドホンを綾音に差し出す。耳に当てると、先ほどの二人の笑い声や音楽がきちんと流れた。だが、ある瞬間に音が切れて、白いノイズの砂嵐のようなものが耳を突いた。その瞬間、綾音の視界も同じように揺らいだ。

砂嵐──それは、彼女がこれまで能力の発動のたびに見てきたものだった。だが今はそれと同時に、何かが引きちぎられる感触が胸の奥で波打った。彼女はヘッドホンを外すと掌で顔を覆った。顔の上に紙のざらつきが触れ、そこに残されたインクの匂いが鼻をくすぐる。

「綾音、大丈夫か?」有馬がデスクの角を指で弾いた。小さな音がホールに響く。来客用の椅子であらかじめ待っていたパーソナリティの高野と、ゲストの由梨が顔を寄せている。二人の顔には疑問と不安が混じる。

綾音はゆっくりと頭を上げた。口の中に鉄のような味がする。頭の中にあったはずの、放送の最後の一文が、うまく掴めない。彼女は記憶を引っ張ってみるが、その部分だけが白い雲のように抜け落ちていた。

「私が最後に……何を言ったか、忘れてる」

綾音の声は小さかった。だが部屋の中の空気は即座に締まった。由梨が綾音の手を取り、じっと見つめる。

「ねえ、あのときあなたが言ったことって、どんなニュアンスだった? 作る側としては、最後に何か落としどころがあったはずよ」

綾音は紙の上に置かれた原稿を見る。そこには短い宣伝文と、放送内容の要点がメモされていた。自分が書いた文字が自分の目に踊り、既視感がする。しかし、手が震え、文字をたどる指先が力をなくした。

思い出したくないのではない。思い出せないのだ。 綾音は昨日、自分で自分に向けて決定を下した瞬間を断片的に覚えていた。書いた一行。ほとんど確信のこもった言葉。「彼らは名前のない関係だ」。その言葉を、内部用の短い解説に載せた瞬間──確かに彼女はそれが形になることを怖れながらも選んだ。職務として、放送をわかりやすく切り取る必要があった。評価掲示盤の注目が上がり、局はその言葉を求めた。

だが、同時に意識の端で薄い警告が鳴っていた。何度もそうなったあの感覚。彼女が「決めた」瞬間だけ、共同で作られたものに残る痕跡が摩耗する。もっと深刻に、強引に結論を押し付けると、共同制作そのものが壊れる──そして最後に何かを失う。綾音はその警告を無視した。

「綾音さん、自分で消したってことですか?」高野が眉を寄せる。彼の声には、憤りと困惑が混ざる。彼はパーソナリティとして、匿名で寄せられた声や参加者の顔を守ろうとしてきた。綾音の行為が、そうした匿名性を脅かした可能性を感じ取っていた。

綾音は頭を振る。否定のつもりでもあったが、どこか声が震えた。

「分からない……でも、この波形の消えかたは、私が引き起こしたものと同じだと思う。放送の最後、私が結論めいたことを言った。その直後に、波形が砂嵐みたいになって──その瞬間から、その部分の記憶が抜け落ちた。具体的に思い出せない。映像で言えば、フィルムが一コマ抜けたみたいに」

由梨の顔が引きつった。彼女はおでこに手をやり、深呼吸した。

「じゃあ、その『結論めいたこと』って何? ここに原稿があるなら、私たちで穴埋めすればいいじゃない」

有馬がその場を取り仕切るように立ち上がる。彼はディレクターらしい即断の目を綾音に向けた。

「今すぐラジオのアーカイブから当該時間を抽出して、局内掲示板にも確認のための告知を出す。聞いたリスナーの反応も拾う。あの放送が話題になってるのは事実なんだから、裏取りする。綾音は深呼吸しろ。身体をいたわるんだ」

綾音は頷いた。深呼吸をしても、胸の中の穴は埋まらない。彼女は自分の能力の性質のひとつを、改めて意識した。痕跡が残るのは、相手と「共同で作った物」に限られる。放送そのものは共同制作だ。だが、彼女がそれに一方的に意味を付与した瞬間、共同作業のバランスが崩れ、痕跡が薄れてしまった。決めつけるほど見えなくなる──それがどういう代償を伴うかを、彼女は身をもって知った。

「でも、あのときの私、何を急いでたんだろう……」綾音は自分の首筋を撫でる。そこには小さな汗の粒が光る。評価掲示盤の数値が次第に彼女の胸を締め付けていた。あの短文がバズったのは確かで、局内の注目も、外部の問い合わせも増えている。番組の意図を単語で売り切ることが、外部の期待に応えることだと彼女は錯覚していた。

「外注の広告が早急に欲しいって取締が言ってきたんだ。『このムーブメントの理由を説明しろ』って。綾音、君の書いた解説があったから話が速く進んだ。結果的には好評なんだよ」

有馬は告げ口めいた口調で言う。言われた瞬間、綾音の腹の底が冷たくなった。好評であればあるほど、彼女がやったことが評価基準になり、それがさらなる「決め」を求める。彼女はその状況を利用されるのではないかと恐れた。

「私が書いたからって、あれがすべてじゃない。あの放送は、参加した人全員で作ったものよ。私の言葉だけで終わるものじゃない」由梨が言った。彼女は怒りを抑えつつ、しかし明確に綾音を擁護した。

「なら、共同で再生しよう。リスナー参加型でやったことをもう一度呼び戻す形で、補完すればいい。無理に私一人でストーリーにする必要はない」由梨の声に、局内の空気が少し軽くなった。協働という選択肢が、まだ残っている。

綾音は苦笑した。だがその笑顔は短かった。彼女は机に置かれた自分のスマートフォンに表示されたメールを見た。件名はひとつだけだった──「スポンサー問い合わせ:短期間での総括を要求」。送信者は局の営業部長、小谷だった。

本文は簡潔だった。広告主が、今後の出稿を検討するにあたり、この放送の影響力と方向性について明確な説明を求めている。期日は明日午前中だ。

綾音は指先を食いしばった。小さな決断の積み重ねが、一夜で彼女を追い詰める。共同体の中で慎重に育てるべき「名前のない関係」を、外の評価は即座に「物語」に変えようとしていた。彼女は能力の代償を歩んで初めて、単独で形を整えようとすると共同体に亀裂が入ることを学んだ。

「私が答えるべきか