ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第4話「第3章」

編集室の蛍光灯は、夜に耐えるため薄く白んでいた。空調の微かな吐息と、卓上の古い扇風機が送る紙の匂い。モニターの端に散らばった付箋が、昨日の会議の断片を震わせる。綾音は重ねたコーヒーカップの縁に指をぶつけ、冷めた液体をぐっと飲み下した。午前中から続く広報業務の合間に、今夜も局内の「後始末」を抱えている。だが誰よりも確かに疲れているのは、名前をつけられる関係性について考え続けてきた自分の心だった。

編集室の蛍光灯は、夜に耐えるため薄く白んでいた。空調の微かな吐息と、卓上の古い扇風機が送る紙の匂い。モニターの端に散らばった付箋が、昨日の会議の断片を震わせる。綾音は重ねたコーヒーカップの縁に指をぶつけ、冷めた液体をぐっと飲み下した。午前中から続く広報業務の合間に、今夜も局内の「後始末」を抱えている。だが誰よりも確かに疲れているのは、名前をつけられる関係性について考え続けてきた自分の心だった。

「綾音、座ってる場合じゃないぞ」黒石透が扉を押し開け、手に抱えた分厚い資料を机に叩きつけた。黒いジャケットの襟が少しほつれている。透は機材の裏側に住んでいる男で、におい立つような電子の匂いを纏っていると綾音は思っていた。

「今夜中に社外向けのデータをまとめて出す。評価会議が明日の朝だ。うちの数字、もう少しマシに見せなきゃって矢島部長が言ってた」と彼は続けた。言葉には苛立ちが滲んでいるが、その奥にあるのは局への細やかな愛憎――綾音は見逃さなかった。

背後から鈴倉杏が入ってきた。若いADの額には汗、手元には半分書きかけの企画書。彼女はまだ二十二、局内では「現場の目線」を装備した存在だ。杏は資料を机に放り、綾音の顔を見据えた。

「綾さん、もうこれ無理ですって。数字で人を測るの、やめませんか。私たちが作ってるのって、誰かの人生の断片でしょう。なのに『何人かしか見てない』とか『二桁台』とかで切り捨てるの、もう…」その言葉は怒りというより震えを含んでいた。綾音はその震えが、明日の自分の震えと重なって見えた。

「どうするつもり?」綾音は訊いた。相談と命令の境界にいるのが自分だと自覚していた。広報として、局の顔を守るべきだと訓練されている。だが同時に、名前に縛られることを拒む自分がいる。

黑石が嬌声のように笑った。「評価制度ぶっ壊す案なんて大げさだ。けど、匿名で作る放送ってのはどうだ? 名前を出さないで、でも人の声と作家性は残す。そういう実験的な枠を作れれば、視聴率に毒されてる姿勢を揺さぶれるかもしれない」

杏が目を輝かせた。「共創放送、って感じで。パーソナリティじゃなくて、関係性そのものを放送するの。誰が誰だか分からない。ただし、作ったものには二人の痕跡だけが刻まれる――っていう仕組みで」

綾音はその言葉で、肋葉の奥を小さく押されたように感じた。彼女の胸の中には、誰にも言っていない“手触り”があった。あれは技術でも勘でもなく、綾音にしか扱えない、奇妙な手癖のようなものだ。人の本音を読む能力ではない。二人で作ったものにだけ、互いの気配が残る。だけどそれは曖昧で、決めつけると消える。急いだり、仕上げを焦ると、共同の糸目がほころんで壊れる――そんな性質を、彼女は痛いほど知っていた。

「やるなら…慎重に。」綾音は小さく言った。言葉を飲み込むようにして、深山を呼んだ。深山は音声チームの技術者で、黙っていると機材の一部に見える男だ。彼が来ると、部屋の空気が少しだけ落ち着く。

深山はコンソールの前に立つと、無言でヘッドフォンをかぶり、二つのマイクの間に片手をかけた。彼の指先はいつもどこかが黒ずんでいて、糸ハンダの跡のように見える。綾音は彼の目線を一度借り、目で合図を送った。深山はゆっくりと頷いた。彼の判断は素早いが、決して慌てない。綾音はその安定を信用している。

「ではテストをする。名前は付けない。順を追って作る――一行ずつ、互いに差し出すように」綾音が言うと、杏が拍手したように手を叩いたが、深山は音量のツマミをいじるだけだった。

最初は小さなことだった。綾音が紙のスケッチブックを取り出し、そこに二行の台詞を書いた。彼女は筆ペンのキャップを外し、綺麗に丸を描くようにインクを運ぶ。深山はそれを受けて、ヘッドフォン越しに低いサウンドスケープを紡いだ。綾音が「こんにちは」という文字を付け足すと、深山の作った空気の層が一つ波打った。二つの行為が重なった瞬間、スケッチブックの余白に、指紋より薄い痕が残ったように見えた――暖かく、乾く前の漆のような光り方で。

黒石が目を細める。「痕跡が見えるか?」

杏が息を呑んだ。「ほんとだ。なんか、匂いが…記憶の匂いみたい」

綾音は小さな恐怖を感じた。彼女の能力は噂にするには危うい。だがここでしか使えないと知っている。彼女は次に、もう一歩だけ踏み込んだ。共同で短いジングルを作ると宣言し、言葉をひとつずつ織るようにして輪郭を作った。深山はそれに応答して、奇妙に心地よいブレスの入った伴奏を入れた。二人の手が紙と波形を交互に触れると、編集ソフトのスペクトラムに微かな光の模様が浮かび上がった。数字や音程ではない、ある種の痕跡だ。

「これが私たちの方法だ」と綾音は囁いた。だが同時に、頭の片隅で禁止の言葉が鳴った。決めつけるな――名付けるな――早まるな――。

黒石が勢いよく言葉を挟んだ。「いいぜ、名前はなくても話題になれば勝ちだ。匿名って新しいトレンドだよ。これを出すぞ。『誰かと誰かの声』みたいな形で」

杏はすでにスマートフォンを探っている。「ティザーだけ上げて、匿名のまま流すの。反応で次の動きを決めよう!」

綾音はそこに手を伸ばして、杏の指先を止めた。指に触れた瞬間、二人の作業は微妙な振動を受けた。共同の線が引き伸ばされたように、音のひだが一瞬乱れた。綾音の胸が締め付けられる。焦ることで、この共同の糸が切れることを知っているからだ。

「待って。完成させるには時間が必要だ。急いで仕上げようとすると、壊れる」綾音が言うと、深山がフェーダーを引いた。彼は短く笑って「わかってる」とだけ言った。彼の声には責任が乗っていた。共同で作るものの「共同」を急がないこと。そこが彼らの守るべき掟だ。

とはいえ、現実の圧力は容赦がない。明日の評価会議に向けた波が、局内を一夜で飲み込むかもしれない。矢島部長の口車もまた、匿名や実験を許さない。だが黒石は独自の判断を示した。彼は資料の中から、小さなルートを取り出してテスト配信をする案を用意していた。外部に出すよりも先に、局内ネットワークで限定的に反応を測る。危険は少ないが、リスクはゼロではない。

杏は黙っていたが、その沈黙が決断の音だった。「私、やる。匿名で出すなら、私がアカウント作る。局の人間が外部に出すわけじゃない。社内で火がつけば、声は自然と広がる」

誰も彼女を止められなかった。若さというのは、時に他人の制約を突破する鍵になる。綾音は杏の決断を受け止めつつ、自分のルールを繰り返した。「ただし――痕跡を残すのは、二人で作った結果に限る。外部で誰かが勝手に名前をつけたり、編集を加えたりしたら、全部消える」

深山が顔を上げた。彼は短く言った。「それでいい。俺は、音で裏打ちする。誰かのラベルに囚われたくない」

黒石は資料を手に立ち上がった。「じゃあ、準備は俺がやる。ネットワークの隔離を作って、アクセス権を限定する。外部に出る前に、内部でどれだけ反応があるか見よう」

三人の合意は曖昧だが、同時に確かだった。綾音は胸の奥で何かが固まるのを感じた。共同制作というプロセスが、今後の拠り所になる。だがその過程を急ぐと壊れる。誰かが安易に名前を与えよう