ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第3話「第2章」
コンソールの背面から低く振動が伝わってくる。モニターに波形が赤く滲み、短く三つの音符が跳ねた瞬間、綾音は自分の手のひらに視線を落とした。指先の皮膚がほんのり温かい。深山と二人で何度も擦り合わせて作ったジングルのファイル──その一部を保存した外付けドライブを彼女は掌に載せている。プラスチックの縁は作業場の紫外線に晒されて少しざらついていた。コーヒーの匂い、ミキサーのファン音、誰かが隣のブースで笑った乾いた音。局の空気はいつもより息苦しい。
コンソールの背面から低く振動が伝わってくる。モニターに波形が赤く滲み、短く三つの音符が跳ねた瞬間、綾音は自分の手のひらに視線を落とした。指先の皮膚がほんのり温かい。深山と二人で何度も擦り合わせて作ったジングルのファイル──その一部を保存した外付けドライブを彼女は掌に載せている。プラスチックの縁は作業場の紫外線に晒されて少しざらついていた。コーヒーの匂い、ミキサーのファン音、誰かが隣のブースで笑った乾いた音。局の空気はいつもより息苦しい。
「どうした、そんなに見つめて」
深山が肩越しに声をかける。彼の息は少し冷たかった。ヘッドホンのコードが彼の胸元で揺れる。深山は声が低く、動作はいつも雑だ。だが今日に限っては指先の震えが隠せなかった。
綾音は一瞬だけ視線を上げ、笑いを作る。作り笑いは慣れている。だが彼にだけは誤魔化せない。深山の瞳の奥、作業によって擦り切れた光があった。
「温度はある。感謝と、ちょっとした安心、かな」綾音は喉の奥で言葉を噛みしめる。共同痕跡視は物にだけ残る「痕跡」を辿る。人の本音は見えない。感情の強度も、何に由来するかも分からない。ただ、二人が同じ物を作ったときに残る熱のようなものを、色や温度として感じ取れる。
深山はふう、と息を吐いた。「そうか。ならいい。余計なことは聞かないでくれ」
「分かってる」綾音は小さく頷く。だが彼女の電話が震え、重い音でバイブレーションがデスクの金属に響いた。画面には局の内線。表示は「編成・黒川」。
受話器越しに黒川の声はいつものように乾いていた。だが今日は煙草のあとが舌に刺さるような鋭さがあった。「綾音さん、ちょっと来てくれ。今すぐ。SNSで小さな騒ぎが出ている。君と深山の仲を憶測する書き込みが広がってる。うちの広報として、このままにしておけないだろう?」
綾音の心拍が一つ、はねた。彼女は立ち上がり、背中をひねって腰に手を当てる。外付けドライブを深山に預け、コンソールの上を渡る冷たい空気を感じた。
「ラベルをつけるんだ。公式な立場を示して炎上を鎮める。写真一枚、短いコメント。段取りは俺が詰める。明日朝までに段取りを決めよう」
「でも」綾音は言葉を探した。広報としての仕事と、自分の内なる原理との間で歯が鳴る。「私たちの仕事は言葉で人に安心を与えることだと分かっています。けれど──これは私個人のことです」
「だが、局のルールだ」黒川の声が冷たくなる。「素性があいまいだと、外部は勝手に脚色する。君の判断で片付く話ではない」
会議室に入ると、すでに真琴と佐和子がいた。真琴は編成プロデューサーで、いつも眉が上がっている。佐和子は広報課長で、週刊誌の見出しを何度も消してきたツワモノだ。三人の視線が綾音に向くと、彼女の喉の奥に冷たいものが落ちる。
「我々は危機を最小化する必要があります」佐和子がゆっくり言う。「公式の枠内で説明すること。それが最短で被害を抑える方法よ」
真琴が資料をめくる。そこには、社内で取り決められた「私的関係の公開手順」が赤字で示されていた。手順のひとつに「関係のラベル化」と「公式写真の掲載」がある。ラベル化とは、社が関係の性質を明示して外部に説明責任を果たすことを意味する。
綾音はその紙を見て冷たい吐息を漏らす。字面は合理的だ。だがその合理性の先には、個人の選択を先取りし、占有する制度が透けていた。
「ラベルを付ければ、炎上は収まる。それに…」黒川が言葉を切る。「我々は透明性を示す必要がある。個人の尊厳は重視するが、組織としての最小限の説明責任は果たすべきだ」
綾音の手がわずかに震えた。彼女は広報だ。言葉を整え、場を収めるのが仕事だ。それでも、彼女の胸の中には見えない線がある。名前を与えられることは、その関係を取り出して他人に奉仕させることだ。
「綾音、君はどう答える?」佐和子の目が光る。
彼女は深く息を吸った。答える前に、もう一度だけ確かめたかった。共同痕跡視は物に残る温度を追うが、その可視化はあいまいにしておかなければならない。決めつければ痕跡は曇り、急げば壊れる。だが、今は時間がない。
綾音は外付けドライブを引き寄せ、静かに蓋を押して開けた。中の小さなカードには、録音したジングルの総指揮として二人のイニシャルが手書きで書き込まれている。綾音は指の腹でその文字に触れ、呼吸を整える。共同して作ったという事実がそこにある。そこにだけ、自分の技能は働く。
「温度を見ます」綾音は低く言った。心の中で問いはしない。誰かの「愛しているか?」、「これでいいのか?」という具体的な問いを投げれば、痕跡は途端に曇る。彼女はいつもそうしてきた。測るのは、音の余韻や息遣いの残り香──漠然としたものだけだ。
カードを胸の上に置く。薄いプラスチックの冷たさが一瞬だけ熱に変わる。赤い波形の記憶が戻ってくる。感謝、安心、そしてわずかな「守る」意志。だがその「守る」は誰を守るのか、何を守るのかは分からない。曖昧さが暖かさを保つ。綾音はそれで良いと思った。
「ありがとう、と言ってる」彼女は小さな声で言った。深山の顔にだけ届くように。
深山はほっと肩の力を抜いた。「そうか。ならいい」
しかし、その瞬間、ドアが勢いよく開き、若いアシスタントの高木が息を切らせて飛び込んできた。スマートフォンを握りしめ、額に汗が浮かんでいる。
「す、すみません! 外部に音声の断片が流出してます! 誰かが深山さんと綾音さんの作業風景を切り取って、深夜の番組で『ラブ感満載』って煽られてます。もう何百件もリツイートが…」
真琴が顎を強張らせる。黒川は電話に手を伸ばした。部屋の空気が急に狭くなる。綾音はカードを握りしめると、薄い違和感が胸に浮かんだ。共同痕跡視が微かに震え、暖かさが一瞬で揺らいだ。
「焦るな」綾音は自分に言い聞かせる。焦れば、焦りは共同作業を壊す。だが黒川は既に決めていた。翌朝に公式声明と写真を出す、と。
「写真は?」深山が問い返す。彼はポケットから小さな缶を取り出し、無造作に机に置く。中身は古いテープレコーダーのカセットで、綾音は見覚えがあった。深山が十年前に使っていたものだ。彼はカセットのラベルに何も書かず、指で縁を撫でる。
「写真を出すのは俺のポジションじゃない」深山は静かに言う。「だが、写真は関係をラベル化する。写真を出したら、そのイメージが君を縛る。俺はそれを望まない」
「じゃあどうするんだ?」佐和子が厳しく言う。「火消しの手段は限られている。外部は視覚に弱い。写真がないと噂は増幅する」
綾音は考えた。彼女の能力は視覚や言葉に取り込まれた瞬間に力を失う。共同で作られた物にだけ痕跡は残るという事実は、逆に言えば「見せる」ことで失うことを意味する。写真や声明は波形を晒し、名付ければ暖かさは冷たくなってしまうかもしれない。
「何か別の方法を」綾音は言ってみるが、自分でもそれが曖昧だと分かっている。曖昧さは仲の良さを守る盾であり、同時に社会にとっては不快な穴だ。制度はその穴を埋めようとする。埋められることに、人は安心する。
黒川がため息をつく。「君の信念は尊重するが、組織のリスクは個人の理想で覆せない。明朝までに回