ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第2話「第1章」
朝の放送局はいつもより冷たかった。廊下の蛍光灯が点滅する中、受付横の評価掲示盤の数字が赤く点滅している。SNSでの反応数、リスナー満足度、スポンサーの評価──横長のモニターに並ぶ数字はどれも鋭く赤く、まるで診察機器のアラームのように鳴り続けていた。綾音はコーヒーカップを落としそうになるのを必死にこらえながら、掲示盤の前に立つ管理職の群れに近づいた。
朝の放送局はいつもより冷たかった。廊下の蛍光灯が点滅する中、受付横の評価掲示盤の数字が赤く点滅している。SNSでの反応数、リスナー満足度、スポンサーの評価──横長のモニターに並ぶ数字はどれも鋭く赤く、まるで診察機器のアラームのように鳴り続けていた。綾音はコーヒーカップを落としそうになるのを必死にこらえながら、掲示盤の前に立つ管理職の群れに近づいた。
「イメージ回復案を今すぐ提出して。昼までに局内会議用の資料を仕上げてくれ」
局次長の高田が顎を突き出す。彼の目は乾いていて、誰にも容赦がない。裏で炎上の火花を散らしたのはパーソナリティの不用意な発言。炎上の当事者は深山慧。局の看板である彼の声がひとつの騒ぎを生んだのは事実だった。
綾音は肩にずしりと重いものを感じた。広報の責務は炎上の収束とイメージの再建。だが彼女の心の奥にあるのは、もっと個人的で、誰にも言えないことだった。彼女は働きすぎだった。眠りは浅く、昼休みは原稿のチェックで過ぎる。だが今日、彼女が最も恐れていたのは、数値ではなく、深山慧──その人と交わす「名前のない関係」についての選択だった。
「綾音、君が一番現場を知っている。編集で落とせる内容はないか?」
高田の声が突き刺さる。廊下を掃く足音、モニターのファンの低い唸り、誰かが紙をめくる音──そのすべてが彼女の鼓動に合わせている気がした。
「私が編集します。深山さんと一緒に、その回の音源をまとめます」
彼女は答えた。言葉には迷いがあったが、決断は早かった。仕事として当然の選択だ。だが綾音にはもうひとつの方法があった。共同で作ったものにだけ、二人の気持ちの痕跡が残る──彼女だけに見える「痕跡」を読む能力。だがその能力は不完全で、厳しいルールがあった。決めつけると痕跡は消えること。急いで共同制作を進めるほど、作品そのものが壊れること。綾音はその代償を何度も学んできた。
スタジオには深山慧がいた。彼は朝の光のように落ち着いた笑みを浮かべ、白いシャツの袖をまくっている。マイクの向こうで彼の声はいつもより低く、しかし安定していた。深夜の収録のこと、ファンからのメッセージのこと、高田からの電話のこと──彼は淡々と話した。だが彼の声の合間に、確かに小さな息遣い、ためらい、微かな拾い笑いが残っている。綾音の手は自然と編集コンソールの上に置かれた。
波形は、指先の振動に似ていた。スクリーン上の波形の先に、綾音はいつもと同じ淡い光を見る。それは他の人には見えない。二人で作った瞬間だけ、波形の端に残る薄い色帯。彼女はそれを「痕跡」と呼んでいた。触れるように見れば、深山と自分の息遣いが交錯した様子がわかる。あるテイクの合間に、深山の声が彼女を見ているように柔らかくなる瞬間がある。綾音はそれを知りたかった。彼の本音が、その色帯のどこかにあるはずだ。
しかし、彼女は自分の指先を止めた。決めつけてしまえば、その薄い光はふっと消える。ある夜、彼女はそれを試したことがある。ほんの一言、「それは恋だ」と決めつけた瞬間、波形の色が散り、編集していたトラックの位相がずれ、音声ファイルが微妙に歪んでしまった。そのとき二人の関係もぎくしゃくし、深山は翌日から距離を置いた。代償は大きかった。以来、綾音は慎重になった。事実を知りたいという欲求と、失うことへの恐れがいつも戦っている。
「ここはカットしよう。フォローのコメントで誠意を示すしかない」
深山が言った。彼の声には疲労が混じっているが、編集の指示は冷静だ。彼はプロだ。綾音は息を吸い、ヘッドホンの片方を自分に、もう片方を彼に差し出した。編集室にはヘッドホンの革の匂いと、古い機材の温熱が満ちている。画面のフェーダーを動かすと、低いクリック音が聴こえた。
綾音は軽く手を伸ばし、深山と同時にあるテイクにフェードインをかけた。二人の指がコンソールの同じフェーダーに触れ合うと、画面の色帯が濃くなった。痕跡は手の温度に反応する。綾音はその瞬間、もう少しだけ覗き込みたい誘惑に駆られた。だが同時に、高田の咳払いが廊下から届く。時間はない。炎上は待ってくれない。
「この部分は位置づけを変えて、最後に信頼回復の言葉を置こう」
彼が言い、綾音は頷いた。だが編集を急ぐと、共同制作の接合面が弱くなる。彼女はそれも知っていた。波形の色帯が細く、切れやすくなってきたのを感じる。ふたりが焦るほど、呼吸の同期が乱れ、音声が不自然に聞こえる。決定を急げば、痕跡は消え、作品は冷たくなる。綾音はフェーダーをゆっくり動かした。
「綾音さん、時間がないんだ。もっとサクサクいける?」
音響の担当、渡辺がモニタールームのドアから顔を出す。彼は時計をちらりと見て、眉を上げた。彼の存在は緊迫感を増す。深山が軽くため息をつく。二人の間に流れる緊張が音になって波形に反映される。
綾音は一つの決断を試した。痕跡を読むのではなく、痕跡を残す方に力を使ってみよう──共同で何かを込めることで、向こうから出てくるものを待つ。彼女は深山に非公式な提案をした。
「最後のメッセージの前に、二人で短いやり取りを入れませんか。名前を出さないで、ただ『ありがとう』とか、断片的な会話だけ。匿名の温度を残せば、炎上をそっと包めるかもしれない」
深山はヘッドホンを外し、微笑んだ。「名前を出さない、か。面白い。リスクもあるけど、やってみようか」
彼はマイクに向かい、台本の用意しない素の声で一言一言を紡ぎ始めた。綾音も素朴な呼吸を返す。二人で生み出した言葉は、机上の台本にはない、ささやかな塵のように音波に乗った。画面の色帯はゆっくりと深く濃くなる。共作は、ゆっくりと形を取り始めた。
だが、そのとき、モニターの一隅に小さな異変が走った。波形の色帯の端に、もう一つの淡い線が重なっている。綾音は手を止めた。通常、痕跡は二人の交錯にしか反応しないはずだった。確かに自分と深山の息、声がそこにある。だがもう一筋、別のリズムが混ざっている。色は薄く、遠慮がちで、まるで誰かが横からそっと指をのせたような感触だった。
「それ、誰の痕跡?」
綾音は声を絞り出す。自分でも驚くほど冷静だった。
深山はスクリーンを凝視し、眉を寄せた。「……俺には見えない。綾音、ここには君しか見えないはずだろう?」
綾音の心臓が一度跳ねた。ルールは明確だった。共同制作に残る痕跡は、その共同者たちの交わりのみで成り立つ。第三者の痕跡が介入することは、起こるはずがない。だが波形は確かに答えを返している。
渡辺がさらに顔を出し、モニターに近づくと、彼は不思議そうに首をかしげた。「何かおかしいな。音は途切れてないけど……ファイルのメタデータに、編集者がもう一人付いてるみたいだ」
綾音の側頭部が冷たくなった。誰かがこの音源に、既に関わっている──しかも深山と綾音の共同作業に気付かれない形で。第三の指が、彼らの線に触れたのだ。もしそれが意図された介入なら、深山の過去の誰かが関係している可能性もある。あるいは、局の外部の人間か。
「局に出入りする名簿はチェックした方がいい。急いではいけない」
綾音は自分の声に驚くほど冷静だった。決めつければ痕