ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第26話「第24章」

蛍光灯の冷たい白が廊下を長く伸ばす深夜、締め切りの匂いはコーヒーとコピー用紙の混ざったいつもの混沌だった。倉橋菜央は、デスクの散らかった資料の山をかき分けながら、震える手でマイクのオンを確かめた。左耳の中で、局の古い換気扇が低く唸る。背後では、音響の中村莉子がパッチケーブルを引っ張り、何度もノブを回している音がする。

蛍光灯の冷たい白が廊下を長く伸ばす深夜、締め切りの匂いはコーヒーとコピー用紙の混ざったいつもの混沌だった。倉橋菜央は、デスクの散らかった資料の山をかき分けながら、震える手でマイクのオンを確かめた。左耳の中で、局の古い換気扇が低く唸る。背後では、音響の中村莉子がパッチケーブルを引っ張り、何度もノブを回している音がする。

「あと一時間で生だよ、菜央さん。本当にこれで行くの?」中村が呟いた。声は笑いを含んでいるが、それが責任を分かち合うというよりも祈りのように聞こえた。

菜央は頷いて、机の上に並べられた短冊の束を見下ろした。和紙の手触りが指先に冷たい。これが今夜の肝だ。リスナー参加の生放送で、局の「名前」を使わせない実験をする。短冊は、番組中に来たメッセージを手作業で共作し、それを局のロビーに貼る──その「共作」という行為が、菜央にしか見えない痕跡を残す。たとえば、手の温度が混ざり合った位置にだけ、微かな光が浮かぶように、感情の痕跡が紙に沁みる。彼女はそれを「痕」と呼んでいた。だが、痕は彼女の決めつけを嫌った。何かを「恋だ」と定義した瞬間、その痕は消え、急ぐほど共同作業は脆くなる。

背後のドアが開いた。高梨晴斗が肩を回して入ってきた。番組のメインパーソナリティであり、菜央の「名前のない相手」。いつもより髪が乱れ、シャツの袖を半分まくっている。彼が近づくと、紙の端が微かに震えた。二人だけが分かち合う、触れ合いの予感だ。

「手、貸すよ」と晴斗は言った。彼が菜央の隣に座り、二人で一本の短冊を挟んだ。紙の間に手のひらを合わせる。指の腹が和紙の繊維を感じ、互いの脈を追う。菜央の能力は、こうした同時の接触でしか働かない。片方だけ触れてはただの圧痕に過ぎない。二人の呼吸が一致した瞬間、紙の表面にかすかな暖色の斑点が広がった。菜央の視界に、微かな光の輪が浮かぶ。それを見て、胸がぎゅっとなる。

「書く?」晴斗の声は近い。紙の上でふたりは、同時にペンを動かす。言葉は輪郭だけ。「君と」「ここで」――断片が重なる。出来上がった短冊の端に、肉眼では見えない細やかな線が走った。菜央はその線に触れたくてたまらなかった。だが、同時に恐れもあった。もしそれを「恋」とラベル付けする、確定してしまえば、その痕が消えることを知っている。

「……これ、恋だよね?」菜央が小声で問う。確認は毒にもなる。言葉は自分自身を慰めるためのもので、でも晴斗に確認を求めるという行為が、関係を急がせてしまう。

晴斗の目が一瞬揺れた。彼はその短冊を胸に引き寄せ、笑って言った。「それは、今は――きみとしか分からないよ」

その答えだけで十分だと思った瞬間、紙の暖色がぼんやりと薄れた。菜央の胸の奥に冷たい空気が入る。決めつけの言葉ではなく、彼の「きみとしか」という曖昧さが残ったからかもしれない。だが、周囲のざわめきが増し、菜央は一つの真実を改めて確認した。ラベルは他者から与えられることもある。局の記者、総務、SNSにいる「誰か」が簡単にその曖昧さを収奪していくのだ。

そのとき、局の代表メールアドレスに一通の内部連絡が入った。コピーライト部の片桐だった。件名は単刀直入に「公式表示の依頼」。局のトップは、スタッフの関係を「透明化」することで、リスク管理とブランド戦略を両立させようとしている。菜央の机の上に冷たい恐れが広がる。ラベル化──名を付けて公にする仕組みが、彼女の仕事を端的に破壊する。

「片桐からだ」中村が読み上げる。「『局のイメージに関わるため、放送終了後に全ての掲示物を回収し、公式ラベルをつけてアーカイブする』ってさ」

晴斗の手がぴくりと止まる。彼は短冊を引き寄せ、菜央の指先からそっとはらった。彼の手の温度が残った面は、残っていた痕が一瞬強く光った。だがその直後、局のアラームのような冷たい電話が鳴り、放送席の外で総務の係長が「申し送り」が必要だと告げる声が聞こえた。

「回収されたら、痕も消えるんだよね」菜央は言葉を飲み込む。説明する必要はない。晴斗は短冊を見つめ、小さく息をついた。

「じゃあ、回収されないようにすればいい」晴斗の声は穏やかだが決意が感じられた。「今夜は、生でやろう。痕が消える前に、みんなの手で作る。共作でしか残らないなら、局の外で、リスナーと一緒に作るんだ」

菜央はその提案を聞いた瞬間、頭が痛くなった。時間は迫っている。生放送のリスクは計り知れない。だが、彼の言う共作には力がある。多数の手が同時に触れることで、痕はもっと複雑な層を持ち、単一のラベルでは消えにくくなるかもしれない。だが、ここで急げば、共同制作そのものが壊れるというルールもあった。

「急いだら駄目だよ」菜央は必死で言う。「一気に大量に作れば、繊維が裂けてしまう。痕は、擦り合わせる時間を必要とする。無理に拡大すれば、ただの紙の束になるだけ」

中村が腕組みをして眉を寄せる。「じゃあ、どうする? 時間はないよ。総務は回収のためのチームを今夜動かすと思う」

「だから、選ぶんだ」晴斗が言う。「全員でやる。スタッフもリスナーも、同時に呼びかけて、同じ瞬間に手を合わせる。量で潰すんじゃない。集中の時間を一つにする。ゆっくり、でも同じ瞬間に──」

菜央は、それが勝ち筋だと直感した。だが同時に、自分の身体にあった既視感──能力を酷使したときの代償を思い出す。前に一度、彼女は短時間に大量の痕を作ろうとした。数日後、右耳の聴力が一時的に落ち、数時間声が出なくなった。能力は使えば使うほど、自分の感覚のどこかを削るのだ。

「代償を受け入れられるか?」中村が直球を投げる。みんな彼女に依存している。菜央は顔を上げ、晴斗の瞳を見つめた。彼の瞳は怒りや恐れではなく、ただ確かな希望で満ちていた。

「受け入れる」菜央は答えた。「でも、急がない。合図を作る。五分前にリハーサルの合図を出して、いっせいの手で短冊を持ってもらう。握る力も、息の合わせ方も指示する。ゆっくりと、同じ瞬間に」

それは賭けだった。時間はほとんどない。二人は手早く動いた。晴斗は生放送の構成を変え、曲を短く切り替え、番組内でリスナーに向けて「同時共作」の呼びかけをする。中村と音響班は、オンエア中にロビーに集まる人々の音を回線で引き出す仕掛けを作った。若手のコピーライター石井壮太は、SNSで拡散用のハッシュタグと手順を用意した。どの判断も個人の意思だった。総務の監視という制度に対して、仲間たちが能動的に動いている。

放送が始まる。晴斗の声が電波に乗り、深夜の街の来訪者たちが耳を傾ける。菜央はコンソールの前で、メーターの跳ねる様を静かに見つめた。リスナーが次々に電話をかけ、ロビーのドアを押し、和紙を手に会場に集まる。彼らの手が交差するたび、短冊に小さな彩りが浮かんだ。照明が和紙をやわらかく照らし、そこにある種の穏やかな熱が集う。

その時、局の片桐係長が制止に入った。回収チームがロビーへ向かう足音が近づく。総務は法的根拠を引っ張り出し、公開放送の安全とブランディングの名のもとに物理的な収集を要求している。局の外でも、匿名のツイートが飛び交い、ラベル化を煽る声がある。勢いは総務側に傾きかけた。

菜央は手に力を