ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第25話「第23章」

深夜の局舎は、昼間の騒々しさを全部飲み込んだように静かだった。蛍光灯のざわめき、冷房の低いうなり、廊下の向こうで止まった時計の針。綾音は両手にゴム手袋をはめ、足元の段ボールから古いカセットテープと裂けた布の束を取り出した。匂いは、埃と少し焦げた磁気テープのにおいが混ざっていた。

深夜の局舎は、昼間の騒々しさを全部飲み込んだように静かだった。蛍光灯のざわめき、冷房の低いうなり、廊下の向こうで止まった時計の針。綾音は両手にゴム手袋をはめ、足元の段ボールから古いカセットテープと裂けた布の束を取り出した。匂いは、埃と少し焦げた磁気テープのにおいが混ざっていた。

「ここまで酷くなるとは思わなかったな」高橋健太が、壁に掛かった大きな布パネルを指差した。布は部分的に切り裂かれ、色が擦れ落ち、ところどころに漆喰の粉が付いている。パネルは以前、リスナー参加のワークショップで作った《無名の輪》という展示物だ。綾音は掌に伝わるかすかな震えを抑えつつ、静かに近づいた。

パネルの端、裂け目の内部に手を伸ばすと、綾音の能力が反応する――共同で重ねられた素材だけが持つ、痕跡のざわめき。触れると、耳裏に低く重なる声がした。声は一つではない。複数の人が一緒に手を動かした瞬間に残る、寄せ集めの音像といえばいい。笑い、咳払い、ちょっとした嘆息。それらが布の繊維の間で微かに、しかし確かに振動している。

「綾音、どう見える?」中島陸が懐中電灯の明かりを当てて訊く。どの顔も疲れているが、手は動いている。修復のために集まったのは美術担当の健太、音声の真奈、ディレクターの陸、そしてインターンの池田拓海だ。拓海は額に汗を滲ませ、目が赤い。

綾音は息を吐いてから答えた。「ここには…複数の“申し送り”が重なってる。謝りたいとか、見ていてほしいとか、単純な慰めのつもりだったという音。だけど、どれも一言で片付けられない。」

そのとき、拓海が唐突に前に出てきた。彼の手には小さな缶がある。ニスの匂いがした。「ここを固めたほうがいい。保存しないと、明日のスキャンで全部消えるって、アーカイブからメールが来てた。固定さえすれば——」

「待って」綾音は遮った。缶の蓋の金属音が、夜の静けさに鋭く響いた。「早まらないで、拓海。固定すると、これ以上重ねられない。痕跡が“成仏”してしまう。ここに残っている混ざり合い、そこにいる人たちの選択の余地も一緒に固まる。」

拓海の指が一瞬止まる。汗が手の甲で光る。「でも、もしデータ化しろって言われたら……。局の指示で、放送プロモーションに使うって。『決まった形』が必要だって。」

真奈が黙って布に手を当て、そっと指先で破れ目をなぞった。テープの端が指に触れて、かすかなザリッという感触。彼女の息は浅かった。「ここに、きっと誰かが貼ったカセットの端があるはず。接ぎ木みたいにして音をつないだ。……でも、綾音が言う通り、このまま固めると、あの瞬間の混ざり合いが消えるかもしれない。」

健太はパネルを裏返して、裂け目から見える内部構造を覗き込んだ。布地の折り目に、昔のポスターの一部が挟まっている。指を伸ばして引っ張ると、紙がふにゃりと柔らかくなって、にじんだインクの下から小さな手書きの文字が現れた。拓海が声を震わせた。「これ、俺の字だ……去年の公開収録のあとに、仲間に渡そうとしてたメモ。こんなところに——」

綾音はそのメモを指で触れた。瞬間、音が一層クリアになり、さまざまな感情が渦を巻いて押し寄せる。怒りでもなければ確信でもない、むしろ居場所を探すような不安と希望が混ざった振動――だが同時に、もし今ここで「これは告白だ」だの「これは謝罪だ」だのと決めつけてしまえば、その多義性は一つの声に押し潰されることも、綾音は知っている。

以前、彼女は言葉にしてしまった。ある共同制作の痕跡に「恋」とラベリングした瞬間、ほかの可能性が暗転し、そこにいた人たちの選択が狭められた。結果、関係はひとつの物語に収斂してしまい、傷ついた人がいた。思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。

拓海は缶を握りしめたまま、震える声で言った。「固定しないと、局は『使える形』にして来る。みんなの制作物を商品化するために、運用部がフォーマットを決めるんだ。そうなったら、俺たちの手は届かない……。」

綾音の耳の奥で、混ざり合った痕跡の音が一瞬細くなる。彼女の能力は、誰かが外側から決着を付けようとするその瞬間に特に敏感に反応する。痕跡は「解釈されること」を嫌うわけではない。だが「決めつけられること」で層を失う。言葉で締めてしまうと、残るのは単一の周波数だけになる。

綾音は膝を折って床に座り、布の端を包むように掌を置いた。指先に伝わる織りのざわめきを感じながら、口を開いた。「じゃあ、私たちで、別の方法を作る。固定じゃなくて、補修って形で。固めるんじゃなくて、参加できる余地を残すんだ。今日ここで一緒にやったことが、次の人にも重なっていけるように。」

真奈が押し出すように笑った。「でも具体的には? 時間はないし、アーカイブは形式を求めてくる。録音ファイルはデジタル化されるとメタデータでカテゴライズされる。そっちが先に押し切られたら終わりだよ。」

健太は工具箱から、柔らかい綿布と非水性の接着剤、布用の補強糸を取り出した。「固定じゃなくて、継ぎ目を補うやり方を考えよう。見た目は修復して、でもあえて縫い目を残す。新しくつけるパッチには、誰でも追加できるポケットを作る。次の人が手紙を入れたりテープを差し込める余地を残すんだ。」

拓海の目が少しだけ光った。「穴を開けて、そこにカセットの端を差し込めるようにする、ってことか。確かに物理的な隙間があれば、デジタル化しても元の多層性は記録できないかもしれない。メタデータの判断基準が崩れる。」

綾音は、布の一角にそっと息を吹きかけた。そこに宿る雑多な声が、ふたたびゆらりと混じる。彼女は、いつもなら指先でそれぞれを拾って並べ、最も真実らしい一つを引き抜いて見せることができる。でも今は違った。彼らが自分たちの手で選び、継ぎ、壊し、また加えていく余白を残すべきだと直感が告げる。

「私が決めない。見るけど、結論は出さない。」綾音は言葉を絞り出した。「このまま『使える形』にするんじゃなくて、私たちが使える形にする。局に見せるのは、完成品じゃなくて『修復のプロセス』だ。どうやって参加の余地を残したかを含めて、提案書にする。」

拓海が缶の蓋を閉めて、肩の力を少し落とした。「プロセスを見せる……それなら、アーカイブも勝手にデータ化しづらいかもしれない。形式に当てはめられる前の、動くものを。やってみるよ。」

健太が裁縫箱から、色違いの糸を二本取り出した。一方は強くて目立つ赤、もう一方は薄い灰色だ。「赤は残す。修復の痕跡として、誰が手を加えたか見えるように。灰色は次の人が使える色にしておく。『誰でも続けられる場所』を明示するんだ。」

真奈は、卓上の古いテープレコーダーを手に取った。「音も同じにしよう。バラバラだったカセットの断片を無理に繋ぐんじゃなくて、差し込み口を作って、リスナーがそこに録音を差し込めるようにする。公開収録のときに流した断片も、そこに残しておく。」

綾音はその提案を聞きながら、手を布の上でゆっくり滑らせた。能力はいつものように囁くが、今回は迷いがない。彼女が結論を出さない限り、痕跡は多義的に残り続ける。もし彼女が「これはこうだ」と言ったら、音と布と文字がひとつの物語に収束してしまう。彼らが選び