ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第27話「第二部幕間」

編集室のライトは薄く、機材のLEDだけが静かに脈打っていた。波形の縁が黒いスクリーンに細かい山脈のように浮かび上がり、ヘッドホンの低音が胸を軽く震わせる。神代綾音は片手でヘッドホンを押さえ、もう一方の指先で粗いオーディオファイルの端をなぞっていた。深夜の局舎はいつもより音がよく通る。隣のブースからは深山慧のめまぐるしい声に混じって、紙のめくれる音、カップに残った冷めたコーヒーの匂いが届く。

編集室のライトは薄く、機材のLEDだけが静かに脈打っていた。波形の縁が黒いスクリーンに細かい山脈のように浮かび上がり、ヘッドホンの低音が胸を軽く震わせる。神代綾音は片手でヘッドホンを押さえ、もう一方の指先で粗いオーディオファイルの端をなぞっていた。深夜の局舎はいつもより音がよく通る。隣のブースからは深山慧のめまぐるしい声に混じって、紙のめくれる音、カップに残った冷めたコーヒーの匂いが届く。

「綾音、ここ、もう一回さわってくれない?」深山が声を張る。卓を隔てた彼の手元で、ジングルの小さなリズムが折り返していた。ふたりが一緒に作ったものだけに残る──綾音はそれを確かめるとき、いつも胸の奥が冷たくなるのを感じる。

綾音は息を整えて、共同痕跡視を働かせた。耳では音を追い、皮膚では二人の呼吸や手の動きが混ざった温度差を探る。波形の縁に沿って、ふっと色を差すような記憶の断片が立ち上がる。笑い声がひとつ、重ねる拍手が一瞬、そしてどこか遠くにある「大丈夫だよ」という欠片の言葉。個人の内語は見えない。だがこの曲のブレイクにある音のずれ方は、深山が焦って手早く詰めたこと、綾音が間を取って整えたことを示していた。ふたりの差し替えが、密やかな指使いとして残っている。

「温度はある。安心、って感じが基調だけど」と綾音は言った。声は小さく、編集卓の金属的な反射に吸い込まれる。「ただ、間合いが不安定。ここ、継ぎ目がズレやすい」

深山は眉を寄せ、フェーダーを動かした。波形がわずかに跳ねる。「ああ……それ、やっぱりか。俺、もっと上げるべきだったのか。リズム合わせるの、急ぎすぎたかもしれない」

二人で調整を続けるうちに、綾音の視界が一瞬砂嵐のようになった。能力を「決めつける」ことをしないようにといつも自分に言い聞かせているのに、その断片を明確な意味に当てはめた瞬間に、痕跡が薄れかける。綾音は手を引き、からだを後ろに引いた。手の内側に冷たい汗がにじむ。

「大丈夫か?」深山が訊く。顔に心配が浮かぶ。彼の声は波形の向こう側で確かに届く。だが綾音は横を向き、返答をしながらも自分の右手にある小さな空白を感じた。先ほどまであった、歌詞の最後の一節の微妙な抜け──綾音がほんの一瞬、確定的な意味を与えたときに、その断片が消え去ったのだ。彼女は息苦しさを覚え、その代償が肉体に刻まれていくのを感じた。代償はいつも思い出の欠けらとして現われる。どんなに小さくても、鮮明だった一枚の画像が薄紙のように剥がれていく。

綾音は黙ってヘッドホンを置き、机に肘をついた。額に冷たい灯りが当たる。やがて、編集室のドアが勢いよく開いた。黒石透がコートの襟を立て、手元のタブレットを叩き付けるようにして滑り込んできた。鈴倉杏も後ろから顔を覗かせ、どことなく張りつめた様子だ。

「田代課長から回覧来たぞ。明日の朝会で議題だ」黒石はタブレットを綾音たちに向ける。画面には短いタイトルが赤字で点滅していた──「コンテンツ収益化強化プラン:視聴者参加型ランキング(試行)」。その下に、細かい施策案が並んでいる。個人の表現、リスナーの恋話、パーソナリティのプライベートに関するクレジット表示──全部が「データ」として可視化され、評価に反映されると書かれていた。

鈴倉は静かに息を吐いた。「あからさまに個人の関係や噂を指数化して、それを番組に流し込む。リスナーの『好き』を金に変える──ってことね。うちでやるの?」

「局の上が『新しい収益モデル』って言ってる。視聴率だけじゃなくて、エンゲージメントを可視化して広告単価を上げるつもりだ」黒石が言う。彼の口元にはいつもの皮肉があったが、どこか疲れた調子だ。「しかも、これから作るコンテンツには、作成責任者の社内IDを紐づけるって。成功したら評価アップ、失敗したらペナルティ。コンテンツごとに『作成者』を明示するルールが義務付けられるらしい」

深山の肩が小さく震えた。彼は茫然と卓上のコーヒーカップを回し、冷えた残りを飲み干す。「俺らの、いろいろ──匿名でやってたことも、全部作成者として記録されるのか……?」

綾音の指先がまた微かに痺れた。共同で作ったものにしか痕跡が残らないからこそ、彼女は「名前のない関係」を守ろうとしてきた。名前のないことは相手に再選択の余地を与える。だがその余地を制度が奪い、作成者をラベル化するなら、共同の痕跡は評価という名の光に晒される。痕跡の「匿名性」は制度の前に脆い。

「これ、局としては視聴者の信頼感を高めるって説明するんだろうけど、実際は人の私生活や感情を数値とランキングにして消費するのよ」と鈴倉が吐き捨てるように言った。「綾音、これが通ったら、あなたの『共創放送』だって、匿名でなくなる可能性が高い」

綾音はうなずいた。胸の中で何かがきしむ。あの弱い光──共同制作の痕跡がこっそり浮かぶ瞬間は、外部の評価に晒されて初めて価値がつけられる。それは彼女の守りたい匿名性と根本的に相反する。

黒石が画面を指でスクロールする。「しかも、IT監査の提案には、すべての納品物に作成者IDタグを付与するモジュールが含まれてる。編集卓での微調整までログに残る。サーバーに上がった瞬間に誰の手が触れたかが分かるようになる。正直、技術的には朝飯前ってレベルだ」

「それを止める手立ては?」深山が訊いた。質問は低かったが、そこに焦りが混じっていた。彼は昨日、一緒に作ったジングルの細切れをまだ探している。あの小さな痕跡が、誰かの評価対象になってしまうことを想像すると、腹の底が重くなる。

黒石は顔を伏せ、タブレットの端を弄った。「小手先の改竄はできるさ。でも、それは結局誰かの自主性を奪うことと同じだ。俺はそんなの手伝いたくない。代わりに、局内のルール案をこっそり調べてみる。弱点があるかもしれない」

鈴倉は眉を上げ、すっと笑った。「あなた、変わったわね、黒石。昔は数値の奴隷だったじゃない」

「変わらざるを得なかっただけだよ」黒石は肩をすくめる。「数値を握る側がどれほど人を潰すか、身をもって知ってるからな。でも、今回は自分の手は汚したくない。みんなが選べるように、情報を出すだけにする」

綾音は自分の掌に目を落とした。先ほどの代償の残りがじわじわと疼く。記憶の欠けは小さくても、彼女には痛みとして届く――頭の片隅がぼんやりと黒く染まったような、何かを引き抜かれた痕跡。本当に危険なのは、制度が個人の選択肢を奪い、誰かが強制的にラベルを貼る世界だ。そのとき共同痕跡視は守りとして機能していたが、局全体がラベル付けを正当化するなら、彼女の力は制度に取り込まれる。

「私たち、どうすればいい?」綾音は小さく呟く。問いは自分に向けられたものでもある。周囲の人間に任せてしまえば、自分はまた代償を払って他人の行為を読み取る役になってしまう。それに、決めつければ見えなくなるというルールは、彼女自身の選択を縛る。それでも、何もしないわけにはいかない。

ドアの外で、事務的な足音が近づいた。編集室の隅に掲示されていた掲示板に、何か新しい紙が差し込まれたのが見えた。鈴倉が立ち上がり、近づいていってそれを取る。表題だけで胸が締め付けられる。

「——『