ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第1話「序章」
外の空気は夜の冷たさを残したまま、放送局の庇にまとわりついていた。ガラス越しに見える社屋の窓は、薄い青白い光を漏らし、長いビルの側面に点々とした矩形の海を作っている。深夜一時、通りには人影がなく、ただ遠くで救急車のサイレンがひとつ、ふたつと引いていった。
外の空気は夜の冷たさを残したまま、放送局の庇にまとわりついていた。ガラス越しに見える社屋の窓は、薄い青白い光を漏らし、長いビルの側面に点々とした矩形の海を作っている。深夜一時、通りには人影がなく、ただ遠くで救急車のサイレンがひとつ、ふたつと引いていった。
神代綾音は椅子にもたれ、キーボードの上で指を止めた。目の下には濃い隈があり、コーヒーのカップは空になっても冷たさだけが残っている。モニターには炎上のログが延々とスクロールし、匿名掲示板のスレッド名が赤く点滅していた。
「これ、どう処理するつもり?」甲高い声が近づき、ディレクターの平岡結がデスクの端で腕を組んだ。いつもより疲れた顔だ。平岡の隣には新人の宮下玲奈が、スマホを片手に震えるようにスクリーンを見つめている。
綾音は画面を指でなぞり、つぶやいた。「リスナーのレポートが一件。生放送中に触れられた話題が、編集されて匿名で流されたって。『寄付金横領』っていうタグがついてる。根拠ゼロなのに拡散されてる」
平岡が舌打ちした。「駅前の飲み会でボロクソにされてるわけじゃない。局の信頼に関わる。会社として即座に声明を出して、法務にも連絡よ。綾音、プレス文案は任せる」
「わかった」綾音は返事をしたが、胸の奥に小さな針のような痛みが刺さる。既定のテンプレートをひねり出しながら、彼女はもう一つの可能性を探っていた。画面の片隅、夕方の生放送で使った台本のPDFが見える。そこには放送作家と、今夜のパーソナリティである早坂涼の指示が赤字で入っている。早坂とは数回、局のキャンペーンで共同作業をしたことがある。二人で作ったジングルのワンフレーズ、ラジオの収録後に笑いながらこしらえた小さな紙片——そうした「共作」には、何かが残ることを綾音は知っていた。
綾音はデスクの引き出しから、使い古した陶器のマグカップを取り出した。マグには早坂と彼女が局のイベントで、一緒に描いた小さな猫の落書きがある。薄く剥がれかけたペンの線が指先に馴染む。彼女はカップに触れ、意識を沈めた。
世界はいつものようにざわつき、空調のファンの音、遠いスタジオのトークの残響、キーボードの打鍵音が混ざり合う。しかし綾音は、そこから別の感触を掬い取った。マグの陶土に染みついた温度、笑い声の断片、早坂の不器用な気遣い。暖かさと焦りが同居している。正確な言葉ではないが、やわらかな誠意があった。
――ここにいる。あなたが心配しなくていい、と。
綾音は目を開け、証拠として他者に示そうとした。だが言葉にしようとしたその瞬間、感触は薄れていった。呼吸のリズムが急に浅くなり、視界の端が白く滲む。彼女は思わずマグを机に置いた。
宮下が不安げに覗き込み、「どうしたんですか?」と聞いた。綾音は首を振り、苦笑いを作った。「何でもない。作業に戻る」
だが消えた感触の残像は、くっきりと手のひらに残っていた。綾音は知っていた。共同で何かをしたものには「痕跡」が残る。だがその痕跡は解釈という枠に押し込められると、たちまち形を崩す。確かめたいという衝動で取って付けた説明を与えれば与えるほど、鮮やかだったものは薄れていく。彼女はそれをこれまで何度も経験してきた。言葉にして決めつければ、何も残らない。だからこそ彼女は「名前」をつけない関係を選んだのだ、と心のどこかで言い聞かせる。
平岡がため息をつき、席の向こうで電話を鳴らした。「放送部の早坂からだ。綾音、出てくれ」
綾音は受話器を取ると、早坂の低い声が流れた。「綾音? 今、状況を見てる。申し訳ない。あのコーナーの録音、消すべき?」彼の声には疲労と共に慌てが混ざっていた。綾音はスタジオのオンエアの窓に目を向ける。赤い「ON AIR」ランプがまだ点いたまま、小さな命のように脈打っている。
「まずは冷静に。削除は証拠隠滅に見える。私たちで一緒に対応案を出す。生放送で訂正するか、番組のサイトで補足を出すか——それは、あなたと一緒に作らないと意味がない」綾音は言った。言葉を選ぶにつれて、自分の内側で小さな秤が揺れた。共同制作でしか残らない痕跡を、彼女はここで作るつもりだった。だが彼女にはもうひとつの制約があった。共同作業を慌てて仕上げれば、その「痕跡」は壊れる。時間と余裕が必要だ。
早坂の呼吸が変わった。「時間がない。局上層部からは即効性を求められてる。炎上は金にならない方向にはさせたくないって」
綾音は机の引き出しに手を伸ばし、そこに置いてあった小さな録音ペンを取り出した。昨夜、早坂が深夜のコーナーで冗談めかして話した一言の生データが、そこに入っている可能性があった。単独で聴けば、その一言は取材相手を軽んじるようにも取れる。だが綾音は早坂と二人で、放送の場で補足と謝罪を紡げば、真意が別の痕跡として残るかもしれない。
平岡が電話越しに言った。「綾音、ただちに文案を上げて。後はこっちでやる」
綾音は受話器を固く握った。頭の中で二つの声がぶつかる。会社の手順。自分の勘。会社の指示に従えば早い。だがひとりで出す声明は、聞く側にとっては粉飾の色が拭えない。共同で作る——時間はかかるが、残るものが違う。綾音は、マグに残ったあの暖かさの片鱗を思い出した。名前を冠さない、そのやり方でしか守れないものがある。
「私は……早坂と一緒に出します」綾音は短く言った。電話の向こうで静かな驚きが漂った。「あなたが一緒にやるってことは、時間が必要ってこと? 局は許してくれるかな」
早坂の声は低く、微かな笑い混じりに震えた。「綾音、君がそう言うなら、やろう。今すぐ局に来てくれ。スタジオで一緒に噛み砕こう。急ぐけど、急ぎすぎないようにする」
受話器を置いた綾音は、深呼吸をひとつした。空調の冷気が喉をさらい、心拍が少しだけ早くなる。チームは彼女を横目で見つめ、平岡は眉を寄せた。宮下は目を輝かせ、「私も手伝います」と声をかける。だが綾音は知っている。たとえ仲間が手を貸してくれても、共同制作はただ数を増やせばいいものではない。参加者一人一人がそこに心を置かなければならない。時間と余裕と、名を冠さない覚悟が要る。
彼女はマグをそっと棚に戻し、立ち上がった。廊下の蛍光灯がぶらぶらとハム音を立てる。窓の外、ビルの窓がまたひとつ、またひとつと光を落としていく。綾音は胸の中にある小さな決意を握りしめた——誰かの評価に関係を裂かれるのではなく、相手と自分の手で作るものだけを残したい、と。
スタジオへ向かう階段を駆け上がる途中で、彼女のスマホが震えた。差出人不明のメッセージ。短い一行だけが表示されている。
「録音を送った。聞いて。——あなたと彼で作ったら、残るものが変わるかもしれない」
綾音は階段の途中で足を止めた。画面の光が指先を冷たく照らす。添付されたファイル名は見慣れない形式だったが、彼女は直感的にそれを開くべきだと分かった。背後で平岡がせかす声が聞こえる。時間は確かにない。だが駆け込みで作れば、痕跡は壊れる。
彼女はゆっくりと、しかし確固として決めた。まずはその録音を再生し、早坂と向き合って一緒に言葉を紡ぐ——急ぐけれど、急ぎすぎないという条件の下で。
扉を押して、深夜のスタジオの光へと一