ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第18話「第16章」
夜の窓に、ラジオ局の看板が鈍く光っている。コンソールのLEDが緑と橙の点滅を繰り返し、空調の低いうなりが薄いベースラインのように部屋を揺らす。綾音はデスクに突っ伏していた。肩は張り、手は微かに震えている。左手の人差し指にはまだ指紋のインクが薄く残り、契約書の束が机に散らばっていた。深夜の局は人の動きが少ないはずだが、今日は違った。制作の山を下ろせないまま押し寄せるように締切が重なっている。
夜の窓に、ラジオ局の看板が鈍く光っている。コンソールのLEDが緑と橙の点滅を繰り返し、空調の低いうなりが薄いベースラインのように部屋を揺らす。綾音はデスクに突っ伏していた。肩は張り、手は微かに震えている。左手の人差し指にはまだ指紋のインクが薄く残り、契約書の束が机に散らばっていた。深夜の局は人の動きが少ないはずだが、今日は違った。制作の山を下ろせないまま押し寄せるように締切が重なっている。
「来たよ、綾音さん」
佐藤真理子がファイルを抱え、扉の隙間から頭を突っ込んだ。彼女の顔は疲れているが、決意があった。真理子は有線のマイクをカチャリと置き、コーヒーの匂いをさせながら近づいてきた。
「局長からだ。特別枠で地域参加型の番組を編成したいって。視聴率は、例の『暴露系特集』並みに行くかもしれないってさ」
綾音は目を細めた。局長の言葉には常にもうひとつの意味がある。情報を商品に変えて売る、と。
「参加者には匿名でも出てもらえる形式にしたいそうだけど、映える切り口も用意してほしいって。——要するに、名前のない関係に光を当てるような演出を頼むって」
綾音の胸がざわついた。「名前のない関係」は彼女が選ぼうとしている生き方そのものだが、商品化されるのは違う。彼女は立ち上がり、ブースのガラス越しに真夜中の街を見た。ネオンが低く波打っていた。
「我々は共同制作でやる。深山にも協力を頼みたい」
真理子の声に、綾音の背骨がぴんと伸びる。深山——音響技師の深山は、綾音が名前をつけたくない相手のひとりだった。彼と作るものにだけ、綾音の技能は働く。二人が共同で作ったものにだけ、痕跡が残る。けれど、その痕跡を綾音が断定すれば見るものは閉ざされる。共同制作を急げば、物は壊れる。彼女はそれを何度も味わってきた。
「やる」とだけ言った。言葉を付け足さないのが、綾音のやり方だった。
スタジオのドアが重く閉まり、深山が機材箱を引きずって入ってきた。彼は無造作に黒いスウェットを羽織り、目には眠気よりも緊張が宿っていた。綾音は彼の手元のケーブルに目を落とし、無言でモニターを指差した。
「今夜は参加者数が多い。録音は一発勝負にしたいって局長が」
深山が眉を寄せる。「一発でまとめるのは危ない。音像がばらついたら痕跡も壊れる。共同で作るってのは手触りと時間が要るんだ」
「時間がないのはわかってる。だけど、名前を出されるよりマシだ」
綾音は混ざり合ったコーヒーの冷たい匂いを鼻で吸い、ゆっくりと息を吐いた。彼女は能力を使うとき、自分の手に微かな熱を感じる。今日はその熱を意識的に抑えるつもりだった。痕跡を縛らないために、彼女はいつもよりさらに慎重に共同作業のプロセスを作る必要があった。
参加者の顔ぶれが揃い、簡素な円卓にマイクが三本、四本、そしてひとつ二つの小さな物音録音デバイスが並べられた。若林ユウは赤いパーカーを羽織り、手に持ったメモ帳をやたらとめくる癖を出していた。若林はこの局のインターンで、好奇心と恐れを両方抱えている若者だ。彼は局の人気取りの論理に疑問を抱いているが、それだけで自分の立場を捨てるほど勇敢ではない。
「匿名は守られるのか?」若林が質問した。
真理子が肩をすくめた。「局は匿名をうたう。だが番組の取材スタッフは別の意味で『分かりやすさ』を求める。だから我々が場をどう作るかが肝心だ」
深山は機材に触れながら小さく言った。「共同で作るってのは、単に同じ場で声を出すってことじゃない。呼吸を合わせ、沈黙を共有して、作業の痕跡を残すことだ。綾音さんのやり方はそのための道具になる」
綾音は目を閉じ、指先を卓上の木材に押し当てた。木の冷たさのなかに、過去に刻まれた感触が蘇る。あるいはそれは記憶ではなく、これから触れる可能性の集合だった。二人が同時にミックスを合わせ、音の層を重ねるとき、綾音の技能は音の深みに触れる。痕跡は微かに震え、まだ名前を持たないように形を取る。
だが綾音は知っている。痕跡を断定することは、見える範囲を狭める。誰かの心を「確定」してしまえば、その後に続く選択肢は剥ぎ取られる。胸の奥が冷たくなり、彼女はわざとゆっくりと手を動かした。
最初のテイクは静かに始まった。参加者は自己紹介めいた言葉をそっと紡ぎ、誰も名前を名乗らない。かわりに、好きな匂い、忘れられない音、朝の習慣を語った。各々の声が混ざり合い、時に重なり、時にすれ違った。綾音と深山はフェーダーを合わせ、空気の厚みを作り出す。彼らの共同作業の時間は、ゆっくりと固まりつつあった。
だが五分を過ぎたころ、局の連絡が入る。放送枠が前倒しに——番組は生放送の直前に差し迫っている。真理子が青ざめる。「録音を二テイクでまとめてって局長が……急いで」
急げば壊れる。綾音の心臓が跳ねた。深山の手が一瞬硬くなり、ミックスがわずかにずれた。参加者の沈黙が切れ、誰かが早口で自分の言葉を入れた。音像がぶつかり、切れ目が生じる。綾音は鋭い不快感を感じた。共同で作る時間が引き裂かれ、痕跡はひび割れた陶器のように、断片だけを残した。
「ストップ」綾音が言った。声には命令の力があった。だがそれは局の効率的な声とぶつかる。真理子がすぐ局に折衝に出る。深山はうつむき、機材を整え直す。参加者の一人、年配の女性がひどく動揺して手を床についた。若林の目が揺れた。誰もが「急がなければならない」という外圧を感じている。
綾音の手が、無意識にコンソールのフェーダーの端を撫でた。彼女の能力は、共同で作ったものにだけ痕跡を残す。だが一方で、誰かがリスクを取る覚悟を見せれば、その痕跡は守られる。綾音はそのバランスを知っていた。守りたくて守りきれない時、自らの欲が介入すると破滅の連鎖が始まる。精神が痕跡を決めつけると、綾音は他の可能性を見る力を失ってしまう。以前に一度、それで仲間の一人を傷つけたことがある。思い出すだけで胸が張り裂けそうになるが、彼女はもう同じ過ちを繰り返したくなかった。
「若林」綾音はそっと彼の肩に触れた。冷たさが手に伝わる。若林はびくりとし、振り向いた。
「俺、出ます」若林が言った。言葉は小さかったが、自分の意思を示すには十分な音量だった。「名前を出すって意味じゃない。だけど、この場の前に出て、語る覚悟はある。リスクを取るのは俺一人でもいい。……綾音さん、あなたが全て守ろうとしなくていいって、見せたいんです」
その一言が部屋の空気を変えた。年配の女性が涙を拭い、別の若者がうなずいた。真理子は目に光を取り戻す。深山はゆっくりと頷いた。若林の「受け身をやめる」という選択は、綾音には計り知れないほどの重みを持っていた。彼の主体性が、彼女の過剰な保護衝動を止めたのだ。
だが、まだ緊張は解けない。局長からのプレッシャーは健在で、編集部には「分かりやすい切り口」を求める圧力がかかっている。綾音は深山と目を合わせ、小さく息を吸った。彼らは一度だけ、共同でテイクを取り直す——ゆっくりと、確実に。速さよりも深みを選ぶ。
録音ボタンが赤く光った瞬間、スタジオの空気がふっと締まる。参加者の呼吸が揃い、微かな紙の擦れ、指先がマイクの網を軽く叩く音が波紋のように広がった