ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第19話「第17章」
屋上の鉄柵に寄りかかる綾音の手は、夜風で冷えていた。遠くの街灯が揺れて、局舎の窓に幾つかだけ赤い点のように映っている。隣で深山が小さなカセットテープを指先で転がした。プラスチックのケースには何も貼られていない。ただ、側面に二つ、指紋のような擦れ跡が残っているだけだった。
屋上の鉄柵に寄りかかる綾音の手は、夜風で冷えていた。遠くの街灯が揺れて、局舎の窓に幾つかだけ赤い点のように映っている。隣で深山が小さなカセットテープを指先で転がした。プラスチックのケースには何も貼られていない。ただ、側面に二つ、指紋のような擦れ跡が残っているだけだった。
「これ、もう一回聴いてみる?」深山は低い声で言った。息の音が夜に溶ける。
綾音は首を振った。胸のあたりがざわつく。昼間の会議の残像がまだ手の裏に残っている。役員は「関係商品化」を数字で語り、契約書には関係の呼称を欄に書かせる案まで入っていた。誰かの人生のありようを「商品名」に押し込める行為が、局内で当たり前になろうとしているのが恐ろしかった。
「聴くよ」と綾音は言った。自分でもどうしてか分からない声だった。彼女の能力はいつだって具体よりも手触りで動く。二人で共同で作ったものにだけ、互いの心の痕跡が残る――それが一度形成されれば、聴覚や視覚では説明できない“何か”が確かにある。けれど条件がある。痕跡を決めつけると見えなくなる。共同制作を急ぐと、壊れる。代償もあって、無理に触れようとすると綾音自身の記憶の一部が薄れる。昨夜のように、急いでジングルを作り直したとき、彼女は一時間分の記憶が白飛びした。
「名前をつけるのは、やっぱり駄目だよ」と深山が言った。彼の声に疲労が混じっている。
綾音はテープを開け、曇った磁気テープの匂いを吸い込んだ。懐かしい、少し油っぽい匂い。手でそっと押し出すと、中のテープに微かな暖かさが残っているのが分かった。触っているだけで、ほのかな震えが指先に伝わってくる。それは二人で重ねた時間の重みだった。
下の廊下からは、まだ会議の熱が届いてくる。誰かの靴音、紙がめくられる音。綾音は思い切って口を開いた。「もし、局がこのテープを“商品”にしたいって言ったら、どうする?」
深山は笑ったように見せかけて、首を振った。「俺たちが作ったものは、俺たちのものだ。だけど会社はそう考えない。名前を与えることで、責任と権利と利益を分ける。そこに人間の曖昧さは入り込めない。俺は――」彼は言葉を切って、壁の向こうの夜景を見た。「昔、名前で傷ついたんだ。誰かに“肩書き”を押し付けられて、それが全部だって思われた」
綾音は深山の肩に軽く触れた。彼の体温が伝わる。深山の話は、彼がラジオで売り出された過去と結びつく。名付けられた関係はそれ自体で商品になり、人はその定義のまま消費される。深山はそれを逃れようとしたが、逃げ切れなかった。名前というラベルが、人を閉じ込める刃になったことを彼は知っている。
「私、怖いの」綾音がぽつりと言った。「見えないものを守れないかもしれないって。あなたの本心を覗けたら楽なのにって、時々思う。だから、共同で何かを作るときは、ちゃんと守ろうって――でも、守ろうとするほど、焦って壊しちゃう。昨日のことを思い出すと胸が締め付けられる」
深山はテープに目を落としたまま、ゆっくりと頷いた。「焦るなって簡単に言えるか?」
二人は黙って、手を重ねた。指の間が触れ合う。綾音はその感触に集中し、息を整える。急ぎをやめると、ひとつだけ見えてくることがあった。痕跡は名前によって消えるが、名前に代わる“共同の作業のリズム”があれば、守れること。ゆっくり折る紙、同時にかける音、呼吸を合わせるだけの時間。そうして初めて、痕跡は表面に浮かび上がる。
「聴こう」深山が言った。彼はテープをラジカセに入れ、ボタンをゆっくり押した。回りのビルの窓が瞬く。カセットのヘッドが回り始め、ノイズの中から二人の声が立ち上がる。短いジングルの断片、笑い声、深山の照れるようなツッコミ。けれどそのすぐ後ろに、別の層があった。声にならない吐息、言葉と音の縫い目に滲むような、温度のある静かな残響。
綾音の目が細くなる。耳だけでなく、胸の奥に触れるような感覚が広がる。これは商用に向くような鮮やかなメロディではない。もっと脆く、個人的な痕跡だ。手作業の跡。二人で息を合わせたときだけ表れる音の皺。
「これを商品にしようって言ったら、どんなことになるんだろう」綾音が呟く。
声を出して、試すように言葉にする。すると、奇妙な感覚が訪れた。綾音が「恋人」と一語口にした瞬間、テープの残響がぴたりと止む。空気が硬直する。ラジカセから流れる音は平坦になり、温度がなくなった。深山の表情がわずかに変わる。二人で作った痕跡の層が、名を与えられたことでごく薄く、透明になってしまったのだ。
「やっぱり……」深山の声は低かった。「名前で決めつけると、見えなくなる」
綾音は思わず手を口元に当てた。心拍が速くなる。名前を定義した瞬間、二人で交わした細かいニュアンスが消えてしまう。言葉にしてしまうことで、もう一度は戻らない何かを失う。彼女は、自分の能力の最も恐ろしい側面を実感した。痕跡を守るためには、関係を定義しない勇気と、時間をかける忍耐が必要だった。
「試してみよう」深山は静かに言った。彼はテープを止め、再び蓋を閉じた。「名前を言わないで、ただこれを守る方法を探す。急がないで。昨日の失敗は、急いだからだ。会社が求める“効率”には、俺たちのものは耐えられない」
綾音は深く息を吐いた。昨日、彼女が無理にテープの一部を切り貼りして放送に間に合わせようとしたとき、胸の中の一時間が消えた。目の前の会議室で飛び交う“売り方”という言葉を思い出す。商品は早く、分かりやすく、消費しやすい形に加工される。そこに手間は入らない。痕跡を消さないためには、手間が必要だ。時間が必要だ。
「でも、どうしても局は押してくるよ」綾音が言った。「今朝、小島さんが辞表を置いていった。『これ以上、誰かの関係を売る手伝いはできない』って。あの箱の中には、何が入っていると思う?」
深山は俯いた。階下の通路を渡る足音が遠のき、やがて消えた。夜風がふたたび爪先を撫でる。綾音はカセットのケースを指で撫で、思いつくままに言葉を続けた。「彼は機材を持って出ていった。だけど、小さなメモを机の引き出しに残して。『名前は誰かがつけるものじゃない。作るものだ』って」
深山ははっきりと目を上げた。何か決意が波紋のように彼の表情を変えた。「なら、作ればいい。会社が効率や商品名を押し付けてくるなら、俺たちで時間を取り戻す。局の外でも、ここで働く人間たちで一緒に作る。急がないルールで。触れるのは共同で、名前はつけない。だけど、それを誰かに知られないように隠す必要はない。選べる形にするんだ」
綾音は深山の手を握り返した。その手の温度が、先ほどの冷えを溶かした気がした。二人の胸の中には、まだはっきりとした結論はなかった。だが、一つだけ新しい事実が生まれていた。今触れているテープは、二人だけで静かに作ることでしか痕跡を保てない――そう思っていたが、今夜確かめたのは、それだけではないということだった。
深山がそっとテープのケースを開け、指先を磁気テープに当てる。すると、薄いノイズの向こうから、第三の声がにじんで聞こえた。小島の声だ。昼間、彼が引き出しに残したメモに書いてあった言葉を、カセットに彼自身が残していた。
「名前って