ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第17話「第15章」
スタジオは低くうなる空気と、コーヒーの焦げた匂いで満ちていた。深夜三十一時の局舎は、昼間の喧騒を忘れたように静かだが、ミキサーのLEDだけはまるで息をしているかのように点滅している。綾音はヘッドホンの片側を外し、冷えた缶コーヒーを両手で包んだ。指先にまだ紙のざらつきが残る。昨日から続く「聴取者共同リレー」の原案書を何度も折り直したせいだ。
スタジオは低くうなる空気と、コーヒーの焦げた匂いで満ちていた。深夜三十一時の局舎は、昼間の喧騒を忘れたように静かだが、ミキサーのLEDだけはまるで息をしているかのように点滅している。綾音はヘッドホンの片側を外し、冷えた缶コーヒーを両手で包んだ。指先にまだ紙のざらつきが残る。昨日から続く「聴取者共同リレー」の原案書を何度も折り直したせいだ。
「もうすぐ始めますよ、綾音さん」
音響の矢田がスクリーン越しに合図を送る。彼の席はミキサー群の向こう、半分だけライトが当たっている。声はいつもよりわずかに荒れていた。今夜は外から持ち込まれた小物で番組をつないでいく――リスナーが作るプレイリスト、紙片、スキャン画像、そして短いリレー音声。小さな共同物を積み重ねていくことで、放送は「場」になっていく。
そのとき、ドアが開いて森下が入ってきた。局の運営部長。ネクタイをきちんと締め、疲労をプロトコルに折り畳んだ顔で歩いてくる。手には薄い封筒がある。
「綾音さん、少し話を――今夜の件だ。数字で示せる形にしてほしい」
彼の言葉は遠からず、従来のやり方を数字に還元しようとする決意の音でできていた。綾音は深く息を吐き、封筒の中身を告げないように視線を落とした。彼が望むのは――この番組が作り出す個々の「関係」を、局の資料として評価可能なラベルに変えることだ。
「でも、森下さん、これは――」綾音は言葉を探す。自分の内側で、いつもの冷たい警鐘が鳴る。彼女は局の広報担当としての名刺をポケットにしまい込み、その上で別の役割を持っている。共同制作物に残る「痕跡」を読むこと。その痕跡は完全な真実を語らない。作られたものの間にかすかな線を見つけ出し、それを「傾向」として示すのが精一杯だ。
森下はため息をつき、「傾向じゃ、予算は通らない。スポンサーに説明できないだろう」と言った。彼の視線は冷たく鋭い。外部からの圧力、経営の不安、数式に還元できないものへの恐れ。綾音はそんなものに押し潰されたくはなかった。
「決めてください、って頼まれても、私は決められない」綾音は平然を装ったが、声は震えていた。「私のやり方は、”選ぶ”ための道具じゃありません。人が自分で解釈して選べるようにするためのものです」
森下の眉がきつく寄る。「それなら試してみよう。今夜のリレーを基に、関係指標を出してほしい。まずは実験だ。方法は――リスナー同士に即席で共同プレイリストを作らせる。10分で仕上げろ。迅速なデータ収集だ」
矢田と沙羅(今夜のメインパーソナリティ)は顔を見合わせる。スタッフたちの空気が一瞬変わる。10分で共同制作。急速な共同は、綾音が何より恐れるものだった。
最初の数分は、ぎこちない笑いと指示で満ちた。ピンのように差し出された紙片がデスクの上で飛び、ヘッドホンからは断片的な声が流れる。リスナーからのメールがスクリーンに流れ、二つ三つの名前が交差する。綾音は手元の紙をそっと撫でる。そこに残るのは、温度、しわ、インクのにじみ方――共同で折られ、拾われた痕跡だった。彼女は注意深く、傾向を読み取っていく。
だが、森下の「急げ」の視線が重い。達也という研修中のアシスタントが、管理職の命を受けて分類ボタンを叩く。彼はラベル付けのテンプレートを開き、急いでタグを差し込む。誰かが「これでデータが取れる」と満足げに笑った瞬間、綾音の視界が波打った。
綾音が声を上げる前に、矢田がミキサーのフェーダーを下げた。スタジオの音が一瞬消える。次に入ってきたのは、つながりが不自然に編集された瞬間だった。リスナーAの語りと、リスナーBのボイスメッセージが、間を詰められて貼り付けられ、呼吸の合わないコラージュになっていた。10分に押し込められた共同は、縫い目がほころびた布のように目に見えて壊れていく。
「見て」と、綾音は手にしていた紙片を差し出す。そこにあったはずの、二人の共通項を示す赤い点が消えていた。インクのはずみでできたはずの濃淡が、ただの薄い線に変わっている。「……見えない」
達也は慌ててテンプレートを修正しようとする。「いや、これはパターンだ。これでいい、これで――」
彼が決めた瞬間、綾音の胸の中に冷たい穴が開くような感覚が走った。決めつける行為。誰かが意味を固定してしまうと、その痕跡はたちまち曖昧になり、消えてゆく。綾音の力は、他人の「結論」に触れられると白く凍る。彼女は手のひらで紙を握りしめ、指先が痛んだ。
放送が終わった直後、スタジオの空気が割れた。リスナーの一人、みちるからのメールが届く。彼女は怒りと戸惑いを並べ立てた。共同で作ったプレイリストが、誰かの「評価」によって一方的に解釈され、相手が傷ついたという。みちるは、自分たちの「名前」を勝手に付けられたと言った。相手――井野は、翌朝から局に来ることを拒み、文通が途切れたと告げた。
綾音は椅子に沈み込み、再びヘッドホンを押し戴いた。耳の奥に残るのは、相手の息遣いではなく、数字を要求する森下の声だ。自分がやってしまったことかもしれない。もし、あのとき自分がもっとはっきりと「傾向」としか言わなかったら――だが言い方を変えただけでは、既に誰かが「決めた」のだ。彼らは結果を急ぎ、共同制作を壊した。
そのとき、沙羅が立ち上がった。マイク前の彼女は、いつもの軽やかな空気を取り戻すことなく、はっきりとした口調で言った。
「これじゃダメだ。私たちのやり方を守るには、急がせないこと。誰かにラベルを付けさせないこと。数字に落とせない形で残すんだよ」
彼女はミキサーから小さな段ボールを引き寄せ、中に手作りのスクラップブックを取り出した。紙、写真、チケットの切れ端、曲名のメモ――手仕事の匂いがする。沙羅が一枚ずつ見せるたびに、スタジオの空気がゆっくりと戻ってくる。
「やり直そう。今度は時間をかけて、現物をつくる。放送も使うけど、急がない。投稿を受け取るための『箱』を回す。参加した人が自分で綴れるようにするんだ。届いたものはデジタル化せず、アナログのまま残す。分配して、読み取りは僕たちが決めない」
矢田が頷き、菊池(制作デスク)が申し出る。スタッフが自主的に動き出す。みな、自分の判断で選ぶことにした。森下は目を細め、帳簿の計算式を思い描きながらも、今は何も言わなかった。制度としての強制は、個々人の判断の前では牙を抜かれることがある。綾音はそのことを、指先で確かめるように感じた。
綾音は棚から、昨日届いた小さなカセットをそっと取り出した。それはリスナーが手作りで回している「回想リレー・カセット」の第一号だ。二つの手の温度が残るプラケースに、細かな擦り傷と指紋が付いている。綾音は息を止める。痕跡はここにある。だが、彼女は今、二つのことを知っていた。ひとつは、急いでラベルを貼れば痕跡は消えること。もうひとつは、誰かが自分たちの物に「決定」を与えなければ、痕跡は時間をかけて堆積していくこと。
迷いが生まれる。もし自分が全力で読み取って、放送で指針を示せば、彼らは短時間で安心して戻ってくるかもしれない。だがその代わりに、綾音は「決めた」という行為の重さを負う。力を完全に使うと、その代償はいつも筋肉の奥の冷