ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第14話「第一部幕間」

夜明け前の局舎は、誰もいないはずなのに活動音が残っている。蛍光灯の白が高い天井で薄く踊り、窓の外にはまだ街灯のオレンジが溶け残っていた。神代綾音はマグカップの底に残った冷たい珈琲を指の腹で撫でながら、編集ブースのドアを押し開けた。空調の箱のような音、コンソールに残る小さなLEDの点滅。彼女は胸の奥にいつもの疲労が重くのしかかるのを感じたが、それでも指先は淡々と作業を始めた。

夜明け前の局舎は、誰もいないはずなのに活動音が残っている。蛍光灯の白が高い天井で薄く踊り、窓の外にはまだ街灯のオレンジが溶け残っていた。神代綾音はマグカップの底に残った冷たい珈琲を指の腹で撫でながら、編集ブースのドアを押し開けた。空調の箱のような音、コンソールに残る小さなLEDの点滅。彼女は胸の奥にいつもの疲労が重くのしかかるのを感じたが、それでも指先は淡々と作業を始めた。

「おはよう、綾音さん。こんな時間に来てたんだね」

鈴倉杏の声が、ブースのドア越しにこだました。杏はいつものカップに熱い紅茶を注いで、首に巻いたスカーフをぎゅっと直した。黒石透は椅子にへたり込み、目を閉じている。深山慧はキーボードを叩きながら、黙って窓の外を見ていた。

綾音は頷くだけで席に着いた。彼女の前には昨日の放送のマスター音源が乗ったUSB。ラベルは手書きで「11/12 深山回」としか書かれていない。指先が波形に触れると、いつもの静かな震えが胸の奥に広がった。共同痕跡視——二人で作ったものにだけ、残された感情の“痕”が見える。だが、その痕は言葉ではなく、温度やリズム、息遣いの密度として伝わる。決めつけるほど、つまり「これはこういう気持ちだ」と断定してしまうと、痕は煙のように消える。急いで形にしようとすれば、共同制作そのものが壊れる。

綾音は深く息を吸って、慎重に耳を澄ました。波形の起伏に沿って再生する。番組の最初、深山が終わりのジングルを歌うように短く吐いた「ああ」が残っている。そこに綾音は微かな暖かさと安心を読み取った。小さな笑み、それを聞いた誰かが肩の力を抜いた瞬間の空気。

「……感謝、かな。言葉じゃないけど、安心してる」

綾音がそっと言うと、深山が視線を返す。だが彼の目はどこか遠く、何かを測るように冷静だった。

「ならいい。あの場は叩かれがちだったけど、少なくとも誰かが救われたなら、それを前面に出したいな。局のイメージも、そうやって修復できる」

深山の声はあっさりしていた。綾音は言いたくなかった。自分が“見た”ものを明言すれば、それは痕を固定してしまう。固定は呪文のように痕を奪い、見たはずのものまで消してしまう。彼女は指先で波形をなぞりながら黙っていた。

「綾音、あのさ」黒石が椅子を立て、長い脚を組み替えた。「評価掲示盤の件、今日の会議でプレゼンするって管理職が言ってた。局の評点をもっと露出して、スポンサーにアピールするらしい」

言葉は局の空気を切り裂いた。綾音の手が一瞬止まる。掲示盤——赤と緑の数字が局内の全員に見えるあの板だ。先日の炎上で赤く染まった数字を思い出す。綾音は波形を見つめながら、小さな悪夢を思い出した。自分が焦って、痕を断定してしまったこと。あの瞬間、彼女は波形が砂嵐のように歪むのを感じ、目の前の音がスポンと抜け落ちるように忘却が入った。放送のある一節の記憶が、風に吹かれた紙のように消えたのだ。

「代償のことはまだ言ってないよね?」杏が綾音を見た。杏の目は真剣で、疲れの下に怒りが透けていた。「あれで何か失ったんなら、もっと慎重にしないと。ただの『力』の話じゃない。局の判断の材料に使われたら、人の選択まで奪われる」

「奪うつもりはない」綾音はすぐに否定した。自分でも分かっている。能力は他人の心を暴くナイフではない。二人で作ったものにだけ残る痕跡を読む、それは相手に許可を求める前の道具ではなく、共同で刻まれた記録を確認するためのものだ。しかし言葉にするたびに、彼女の内側で何かが揺れる。焦れば焦るほど、取り返しの効かないものを失う。実際、前回の強引な読み取りで、彼女はあの回の最後の三分間の音像と、自分が誰に助けを求めようとしたかを失った。記憶の欠損は淡く冷たかった。思い出せない自分の言動が、誰かを傷つけたかもしれないという恐れは、どこにも隠せなかった。

深山が口を開く。「綾音、正直に言ってくれ。あの回、俺はどうだった? 俺が何か変なことを……」

綾音は顔を上げられなかった。コンソールの冷たさが掌に伝わる。彼女の能力は「読む」ことと同時に、「守る」ことでもある。守るためには決めつけてはならない。だがその曖昧さは、広報という職務と激しく乖離していた。管理職は明確な言葉と数値を求める。世間は断定を欲し、噂は速さで広がる。

「慧さんは、放送では落ち着いてたよ」綾音はやっとのことで答えた。「でも──私が見たのは、誰かが救われることを願う声と、終わったときに肩を預け合える空気。ラベルをつけると、それは壊れる」

深山は黙り込み、低く笑った。「綾音らしいな。ラジオは顔が見えないからこそ救われるとこもある。あの場は、名前じゃなくて声に救われるんだろう。でも現実は厳しい。上は数字を見たい。俺だって、説明しないと局に居場所がなくなる」

黒石が立ち上がり、ブースの一角に置いてあった小さなモニターを指差した。そこには先ほど管理職が回した資料のコピーが写し出されている。スライドには「評価の可視化によるスポンサー価値向上」「噂の流通とコンテンツ化」など無機質な言葉が並んでいた。

「これを放置したら、我々の仕事は噂を素材にしたエンタメに変わる。人の関係が商品になって、壊れたら次のネタだ。誰が得するかは一目瞭然だ」黒石の声は低かったが、そこに怒りと恐れが混じっていた。

杏が前に出る。「じゃあ、やることはひとつでしょ。名前を付けない、でも守るための枠組みをつくる。『共創放送』。匿名で参加できる共同制作の場を作って、そこで生じた痕跡だけを発信する。個人を晒さずに、でも本当の声を届ける。綾音の能力も、それを確認するためだけに使えば、悪用はされにくい」

言葉は軽やかに飛んだが、重さは確かだった。綾音はその提案に驚きつつも、内心で震えた。能力を使うことはリスクだ。だが共同制作の場を作り、痕跡を「作品」に閉じ込めることで、彼女は自分の読み取りをある程度制御できるかもしれない。共同して作るという行為自体が、痕跡を残すための条件でもある。だが同時に、急いで作ればその共同性は壊れ、痕跡は脆くなる。管理職が数字を求めるほどに、彼らは急かされる。急かされるほどに、壊れる。

「ただし」綾音は声を絞り出した。「私がその痕跡を読むときは、誰か一人のために断定しないことを約束してほしい。ラベルをつける前に、みんなで何を作るか、どう守るかを決める。それに、もし私が代償を払うようなことが起きたら、すぐに止めること。私が不可逆的に失うのは、もう耐えられない」

三人は互いに視線を交わした。小さな合意がそこに生まれる。誰かが始めるのではなく、全員の意思で始めること——その線が、彼らを救うかもしれなかった。

「分かった」深山が立ち上がり、窓に近づいて外の明るさを確かめるように手を伸ばした。「明日の企画会議で正式に提案してみる。だが局の上の奴らは食いつきが早い。匿名を守る方法、技術的にも制度的にも考えておかないと」

黒石はにやりと笑い、すでに頭の中で回路を組み替えるように言った。「掲示盤には個人名ではなくプロジェクト名で出すようにして、IDのリダイレクトをかけてやる。技術的には可能だ。かわりに我々の内部だけで履歴を共有して、外