ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第13話「第12章」

ミキサーのランプが規則正しく瞬いている。スタジオの空気は、深夜の放送室特有の濃度を持っていた。古いテーブルに置かれた紙コップからは冷めかけのコーヒーの苦味が立ち上り、磁気テープを巻き戻すような微かな機械音が耳の奥で鳴る。綾音はヘッドフォンを片耳だけ外し、外の廊下の明かりの様子を確かめるように目を細めた。

ミキサーのランプが規則正しく瞬いている。スタジオの空気は、深夜の放送室特有の濃度を持っていた。古いテーブルに置かれた紙コップからは冷めかけのコーヒーの苦味が立ち上り、磁気テープを巻き戻すような微かな機械音が耳の奥で鳴る。綾音はヘッドフォンを片耳だけ外し、外の廊下の明かりの様子を確かめるように目を細めた。

「何度も言ったはずだ。局の顔として、名前を出せ」
内田は黒縁眼鏡を押し上げる仕草をしながら、スタジオのドア枠に手をかけていた。背後の廊下からは管理課のビルボード表示がちらりと見え、そこには既に用意されたプレス用の写真と名前欄のテンプレートが浮かんでいる。

綾音はマイクの前に立ち、掌をテーブルの重みに当てた。彼女の腕には、この三ヶ月の過労が作った小さな赤い血管が浮いている。言葉を選ぶとき、彼女はいつもよりゆっくり息を吐いた。

「ここにいる人たちの声を、ただラベルにして商品にするつもりなら、今日の放送はしません」
声は静かだったが、切れ味があった。机の向こうで、真琴がゆっくりとマイクに近づき、頷いた。颯斗は卓のフェーダーを軽く撫でる。陽一はスタンドライトの下で、メモを握りしめたまま黙っている。

内田の指先が資料をまくる音がした。「匿名だ、か。監査の目もある。広告主は呼べない。君、局のリスク管理を理解しているのか?」

綾音は目を逸らさずに、小さなノートを取り出した。それは薄い和紙のような紙を綴じた自作の冊子で、角が擦れていた。中には、幾つもの筆跡、切れた句、押し花、誰かの不器用なスケッチ。綾音と、彼──あるいは彼女──が共同で作った最後の一枚が挟まれている。

「これを見せれば済む話じゃない。名前を出せば、痕跡が消える」
綾音の言葉に、内田は冷笑した。「迷信か詩か。僕らは証拠が必要だ。誰がいつ何を言ったのか、記録しないと──」

彼が「誰」を特定しようとした瞬間、綾音の胸の奥で何かが鋭く震えた。ノートの左端に押された二つの指跡が、彼の声の前にふっと薄く色を失う。インクが指で擦れたようににじみ、筆圧の強さを示す陰影が消えた。音声モニターの波形が、見慣れた寄り添いを失い、平坦な線になる。周囲にいたスタッフ全員の喉が詰まった。

「見えなくなる……」陽一が小さな声で言った。「彼らの"気配"が、消えた」

綾音はその変化を嫌悪に満ちた顔で見た。能力の条件は常にそうだ。共同で手を動かし、時間を分け合った物にだけ痕跡は宿る。だが誰かが決めつけ、名前や意味を押しつければ、痕跡は反発して透明になる。人為的な圧は、痕跡を溶かす溶媒だ。

「急がせたら壊れる」颯斗が続ける。彼は先日、匿名の寄稿を装丁しようとして大量印刷をかけたが、糊が剥がれ、ページの重なりがずれた。目の前に置いてある小さな束が、その証拠だ。角が揃わず、ページの継ぎ目が波打っている。急ぐと共同制作の呼吸が乱れ、仕事は壊れる。

内田はペン先で資料を弾いた。「われわれは放送局だ。秩序と責任がいる」

「秩序の名で人の選択を奪うのは、責任じゃない」綾音はマイクのダイアルに指を置いた。今夜の特番は、生放送であると同時に、証拠を残さない仕組みを世界に示す儀式になる。彼女たちは参加希望者全員と同時に、息を合わせ、音の層を重ねることでしか残せない「痕跡」を作るつもりだった。録音ではなく、体温の交換のようなものだ。しかも、参加者全員の意志で成り立たなければ、成立しない。

「やるなら、全部賭ける」真琴が言った。彼女は制作テーブルの小さなランプを指で叩き、スタジオを暗くした。暗闇の中で、四つの顔が鮮明に見えた。決意が光っている。

内田は短く息を吐く。「これで問題になったら、君たちの全員の責任だぞ」

「それでもいい」綾音は言い切った。胸の下で、彼女は小さな痛みを感じた。それは、能力を大きく働かせるときに常に現れる徴候だ。彼女が深く息を吸い、放送ボタンに手を置いた瞬間、耳鳴りと似た高い音が耳奥を打った。使うたびに、彼女の内側から何かが削り取られる。それは記憶でもあり、声の一部でもあり、夜に咲く花が一輪散るような代償だった。

放送は静かに始まった。綾音はマイクへと向き直り、声を絞り出す。彼女の声は震えたが、誰かの肩に触れるように穏やかに波打った。事前に集めた匿名の断片──手紙の一行、誰かの笑い声、指先で触れられた紙のざらつき、押し花の潰れた匂いの話──を、局員たちが一人ずつ読んで重ねていく。真琴が時間を計り、颯斗がフェードを操作し、陽一が沈黙の間を作る。管理課からの圧力があっても、放送はゆっくりと、しかし確かに呼吸を合わせていった。

そして、最後の段で綾音が冊子の一枚を取り出す。そこには、彼と彼女の二つの筆跡が、紙の繊維に押し込まれるように寄り添っている。綾音は瞼を閉じ、指先でその跡を辿った。温度が伝わる。そこにいるのは顔ではなく、時間の積み重ねだ。

『これが私たちの痕跡です』彼女は言った。言葉が空気を切ると、スタジオの空気が揺れたように感じた。ヘッドフォンを通して、リスナーの静けさが伝わった。どこかで誰かが息を呑んだ。

だが代償は現実だった。放送が終わると、綾音は喉に鋭い痛みを覚えた。声帯の奥が腫れたようで、言葉がしぼむ。机に置いたコーヒーの匂いが一瞬鋭く、次の瞬間には遠くなる。心の中のある画面が薄れて、彼の顔の細部がぼやけた。彼の笑い方、眉の傾き、そのとき彼が服に付けていたボタンの色――綾音はそれらを思い出そうとすると、砂に文字を書くように指が滑るのを感じた。代償は、刈り取られた痕跡のピースだった。

「綾音、大丈夫か」真琴が優しく近づく。颯斗は静かにエッセンシャルオイルの小瓶を取り出し、彼女の前で匂いを振った。だが綾音は笑って、頷くだけだった。彼女はすでに知っていた。自分がこれ以上その能力を公共の場で繰り返せば、いつか決定的に大切なものを失うだろう。だからこそ、今夜すべてを賭けたのだ。

スタジオのドアが静かに開いた。小さな紙片が床に滑り込むように、匿名の郵便が置かれている。綾音はそれを拾い上げ、封筒に書かれた文字を睨みつけた。名前は書かれていない。差出人の欄には、ただ一点の押し花が貼られている。

指で封を切る。中から出てきたのは、薄い色の紙片に書かれた二行の短い文字と、紙の端に残された軽い圧痕だった。風がカーテンの隙間を擽る。綾音は息を飲み、目をつぶるようにして文字を追った。

「また選び直す日を、私は待ちます。あなたは、どうする?」

文字の下には小さな鉛筆の線が一つだけ。彼の仕草を思い出せないのに、鉛筆の触れ方が指先に残っている。そして紙の縁が、ほんの少しだけ暖かい気がした。痕跡は残っている――顔や名前ではなく、選ぶための余白として。

綾音は立ち上がった。喉の痛みが鋭かったが、足元の床は確かに冷たく、彼女はその冷たさを現実として抱えた。内田は机越しに書類を握り締めている。彼の顔に怒りと懸念が混ざっているのが見える。だが今は、局員たちの目が綾音に向いている。一人ひとりが、自分の次の一手を考えていた。真琴は小さく息を吐いて、自分のラップトップの画面を閉じる。颯斗はアーカイブのハードドライブをバッグに入れた。陽一はマイクに手を