ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第15話「第13章」

機材室の蛍光灯が、昼下がりの空気を薄く引き延ばしていた。綾音は、デスクの端に置かれた保温カップの蓋を外して熱いコーヒーを一口だけ飲む。口の中に残る苦味が、これから起きることの重さを少しだけ和らげる。右手の指先には、昨夜まで続けていたポスター貼りの糊がまだ薄く残っていた。局の臭い——テープの接着剤、古い紙、電子機器の微かな温熱——が鼻腔をくすぐる。

機材室の蛍光灯が、昼下がりの空気を薄く引き延ばしていた。綾音は、デスクの端に置かれた保温カップの蓋を外して熱いコーヒーを一口だけ飲む。口の中に残る苦味が、これから起きることの重さを少しだけ和らげる。右手の指先には、昨夜まで続けていたポスター貼りの糊がまだ薄く残っていた。局の臭い——テープの接着剤、古い紙、電子機器の微かな温熱——が鼻腔をくすぐる。

「始めるよ」松田局長の声が、会議室のスピーカー越しに届いた。画面に次々と匿名の告発メールのスクリーンショットが映し出される。受信日時、差出人不明、文面は短く、しかし感情を煽る言葉で埋まっていた。参加者の顔が固くなる。里央は、手元のハサミを強く握りしめて爪の白さを見せた。

久保田辰巳が席を立ち、テーブルの上に小さな機器を置いた。小型のポータブルレコーダーだ。表面に色褪せた布テープが巻かれ、そこに数枚の紙片がセロテープで貼り付けられている。紙片には、手書きで短い断片が記されていた。笑い声、食べ物の名前、夜の路地の匂いを表す単語——共同で作ったものには、いつもそういう雑多な痕跡が残る。

「これが、最後にみんなでまとめたものです」辰巳は静かに言った。その声には、自分の過去を突きつけられるかもしれない緊張が潜んでいた。松田は不機嫌そうに眉間を寄せる。「検査だ。これで本当に共創だったのかを確かめる。社外の第三者を入れる。安全装置も通す」

局の新しい安全装置は、メタデータや音声の固有情報を抽出し、匿名化するために設計された。「参加者保護」の名目だが、関係の痕跡を物理的に分離してしまう。里央が顔をしかめた。「それじゃ、元のまま残せないってことですか?」

綾音はゆっくりと歩み寄り、辰巳のレコーダーに手を伸ばした。技能が、手先の肌と共同作業の残滓を媒介にして働く。二人が何かを一緒に作ったものにだけ、感情の痕跡が残る——それは彼女の肌に触れることでわずかな映像と音を呼び起こす。だが能力は間違いなく不完全で、代償を伴う。早まって結論を出せば、見えているものは凍りついた一枚絵に変わり、もともとの動きは消えてしまう。急ぐと、共同制作そのものが壊れる。

綾音はレコーダーの冷たい金属に触れた。最初に入ったのは、雑然とした手の動きの記憶だった。誰かがテープを巻く音。紙片を切る軽いカサカサという音。里央の笑い声が、短く弾んで混ざる。そこに、深い午後の空気に溶けるような不意の沈黙が挟まれる。綾音はその沈黙に耳を澄ませた。沈黙の奥には、互いがどれだけ互いを信じられるかを試すような緊張がある。

だが松田が、画面のメールを指して言った。「この録音から、演出の兆候が出たらお前はどうする?我々は事実を示す必要がある。あやふやは許されない」

綾音の胸の中で、何かがきしんだ。事実を示すことを求める圧力は、一見正当だ。しかし、彼女の能力は「事実」を確定させるためのものではない。断定のために触れれば、音は一つの言葉に固まり、あたかも計画的に作られた合図のように見えてしまう。綾音はその危険を知っていた。彼女は指先に、痕跡に含まれる曖昧さを探す。色褪せたテープに染みた汗の跡、針の跡、セロテープの縮み——それらはどれも、作業の速度や、参加者同士の気持ちの距離を示している。

「走らせるな」彼女は静かに言った。声に力を込めないように努めたが、室内の空気は少しだけ流れを変えた。里央が顔を上げる。里央の眼差しには眠れない夜を抱えた疲れが入っていた。茂木がテーブルの角を叩く。「でも局長、匿名メールは炎上の火種になります。安全装置を通さないと、社の責任が──」

そのとき、綾音の内側にくすぶっていた欲求が強く顔を出した。見たい、はっきりさせたい。彼女は能力の誘惑に揺れ、痕跡を「解釈」しようとして言葉を片端から拾い上げた。すると、最初はちらばっていた音の断片が鋭く結晶化し、里央の笑い声はひとつの言葉に変わった。——「演出だ」。否定の余地を与えない断定。綾音の心臓が小さく跳ねた。

そして同時に、机の上で誰かが立てたばかりの紙片が、はらりと落ちた。手先の速さで里央が手を伸ばそうとした瞬間、セロテープの端が引っ張られて、写真の角が裂けた。裂けた紙の繊維から、綾音の感覚の糸がすうっと抜けていくのを感じた。彼女が見た「演出だ」という確信は、音の流れの一つの側面を切り取っただけだった。紙片の断裂によって、そこに宿っていた微かな息遣いが一気に散ってしまった。

「やめて!」里央の声が部屋に張り付いた。辰巳が、ゆっくりと手を伸ばして裂けた写真を拾い上げる。破れ目に、彼らが昨夜並んで座っていた狭い喫茶店の窓外の雨粒が反射しているように見えた。そのとき綾音は、胃の奥から冷たいものが湧き上がるのを感じた。能力の代償を目の当たりにした。急ぎ、決めつけるほど、事物は不自由になる。

松田は明らかに苛立っていた。「だから言っただろう。透明化するんだ。曖昧な余地を残すのは企業のリスクだ」

「でも、それは——」綾音は言葉を探した。曖昧さを守ることが、誰かの選択肢を守ることにつながる。証拠を剥ぎ取られた瞬間、そこにあった小さな自由は無力になる。しかし、守るために証拠を示すことは、同じくらい人の選択肢を奪うことになる。綾音は息を吐いた。両方が敵であり、どちらも正当だった。

その時、美沙が席を立った。彼女は綾音の後輩で、PRの資料を夜なべして作る手つきがいつも達者だった。美沙は静かに、持ってきた小さな箱をテーブルに置いた。中には、ラミネートされたメモと、ちいさな透明な袋がいくつか入っている。汚れないように保存された小物だ。

「これ、みんなで選べるようにしませんか?」美沙の声は震えていなかった。彼女は松田に向けて言った。「局長、もし安全装置を通すなら、オリジナルは参加者に預けてください。検査用はコピーで。参加するかどうかは本人たちが決めるべきです」

局長が眉をひそめた。「手続き上──」

「手続きは後でなんとかします」美沙は言い切った。彼女の目が小さく光った。そこにあるのは、上司の命令を越える覚悟だった。綾音は驚きと安堵が入り混じるのを感じた。誰かが自主的に境界線を引いた。彼女の肩の力が、少し抜けた。

達也が、機材のラックに手を伸ばす。彼は技術班のリーダーで、局の機器のほとんどを掌握していた。「この録音を丸ごとは流せないけど、オンエア用には参加者が合意した部分だけを繋ぐことはできます。時間をかけて、みんなの手で最後の一秒を作る——それなら、安全装置をかける理由にはなるんじゃないか」

里央が小さく笑って、手のひらで自分の膝を叩いた。「私たちで決めましょう。誰かに決められるんじゃなくて」

綾音は、胸の内が少し軽くなるのを感じながら、改めてレコーダーを見た。裂けた写真は修復されていない。だがそこには新しい選択肢が生まれていた。能力を使ってすぐに結論を導き出す代わりに、彼女は一つの方法を選んだ。共同制作を壊さないように、最後の一声を参加者全員と共につくる。そのためには、もう一つの代償を払わなければならない。彼女は、自分が「知らないままでいる」ことを受け入れる必要がある。真実を完全に掴むことを放棄するかわりに、他者の選択を守る。