ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第12話「第11章」
深夜の局は、まるで放送のあとにひっそりと残された機材の骨格みたいだった。蛍光灯の縁が細く震え、空調の低い唸りが薄い壁を伝う。綾音はミキサーのフェーダーに指先を置いたまま、手のひらにじっとりとした汗を感じた。コーヒー二杯目の苦さが胃に沈んでいる。
深夜の局は、まるで放送のあとにひっそりと残された機材の骨格みたいだった。蛍光灯の縁が細く震え、空調の低い唸りが薄い壁を伝う。綾音はミキサーのフェーダーに指先を置いたまま、手のひらにじっとりとした汗を感じた。コーヒー二杯目の苦さが胃に沈んでいる。
「あと二分で、黒田さんたちが来る」
蓮がスタジオのドアを半分開けて囁いた。声はいつもより硬い。いつもは滑らかに言葉を紡ぐラジオの顔が、ほんの少し震えている。蓮はパーソナリティだ。笑わせ、話をつなげるのが仕事の彼が、今、ここで立ち止まっている。
綾音はうなずいた。手元のUSBメモリを確認する。そこには、これまで三週間、彼らが零れ落ちた言葉や日常の音を集めて作った「空白の音景」が入っている。共同で作った音だけが、彼女の能力に痕跡を宿す。だがその痕跡は、綾音が決めつけてしまうと消えてしまう。急いで作れば壊れる。文字通り、この数週間は〈共同〉の呼吸と時間を繋ぐために、みんなが自分を削ってきた夜だった。
「綾音、君の判断でいい。どんなやり方でも構わない、ただ──」蓮は視線をそらし、言葉を切った。
「ただ、うちの関係を名付けて商品にするような書類は出せないってことだよね」
玄関のチャイムが鳴った。重い靴音が廊下を渡ってくる。黒田が来たのだ。局の上層から派遣されたコンプライアンス担当。公的な書類に彼らの番組の「関係性ラベル」を貼り、外部企業へと接続させる仕事をしている。噂と評価の消費を制度として形にする男だった。
「綾音さん、説明してもらえますか。ここで何が行われているのか、記録はあるか」黒田は冷たく観察した。スマートフォンの画面が青白く光る。彼の言葉には、声に乗らない計算があった。
綾音は深く呼吸し、ミキサーのノブに触れた。夜の中で、自分の能力の合図がじわりと胸に戻る感覚を感じた。共同制作物にだけ痕跡を残す力。だが、代償というものがある。綾音は、代償を受け入れる準備をしていた。失うものは「過去の決めつける記憶」だった。自分が誰かの気持ちにラベルを貼ってしまった過去。強引に意味を当てはめてしまって、壊したもの。あの失敗の断片が、戻ってこないことは承知している。だが──今、一番守るべきはここにいる人たちの「選び直せる自由」だ。
「記録はあります。けれど、それは私たちが共同で作った音だけです。それ以外の個人情報や名簿は……出せません」綾音は声を震わせずに言ったが、喉の奥が砂を噛むように渇いた。
黒田の唇が薄く動いた。「規則は規則だ。このままでは局全体に罰則が及ぶ可能性がある。外部監査の判断だ」
その瞬間、真琴が壁の隅から静かに立ち上がった。真琴は音響技術者で、いつもは機材の裏側で灯りを守る。真琴の手には小さなラジオがあった。その表面には、綾音たちの手書きの小さなメモが貼られている。二人が深夜作業で交換した一言の切れ端だ。
「私たちは、ここで何をするか自分たちで決める」と真琴は言った。「あなたたちのチェックリストに書いてある『関係性の明示』を、私たちは拒否する。代わりに一つの提案をする。今から、このスタジオでライブをやる。私たちが共同で作る、名前のない放送を、三十分間。その音が、私たちの痕跡になる」
黒田は鼻で笑った。「ライブで何が変わる? 録音であっても同じだろう」
「違う」綾音が割って入る。「生の共同制作は、形を変えない『今』を残す。私の能力は、同じ『今』を共有したものだけに痕跡を残す。私たちが共に作れば、外部のラベル化から私たちの関係を守る可能性がある」
黒田の視線が鋭くなる。「あなたの...特殊な能力を、ここで利用する気ですか?」
綾音は視線を外した。能力は道具ではない。だが今は、道具として使うほか道がないように見えた。代償を払えば、痕跡は深く刻まれる。けれどその代償は、自分の中で他者を即断してしまった過去の記憶を消すことだった。過去を手放せば、彼女はもう一度、誰かの気持ちを決めつけないでいられるかもしれない。
「やる」綾音は静かに言った。「私が代償を受け入れます。だけど条件があります。私が何を失うかは二度と戻らない。みんなに制約を押し付けたくない。だから、放送の内容は全員が自然に出した声と音だけにします。決めつけや演出はしない。それが私の代償の意味です」
蓮は綾音の手を軽く握った。真琴は頷き、ミユがスタジオに持ち込んだ小さなギターを肩に掛ける。翔太は苦笑したが、目には覚悟があった。全員の身体が自分の意思で集まる。綾音はそれを見て、胸の中で何かが固まるのを感じた。
黒田はしばらく黙っていた。監査の書類をめくる音だけが、とうの昔に忘れ去られた習慣のように聞こえる。やがて彼は口を開いた。「控えめに申し上げると、法的なリスクは理解した上でやるのですね。なら、こちらも記録を作らせてもらう。公的なアーカイブとして残す。内容解析は当局の判断で行う」
言葉の端にある脅しと取引の匂いに、蓮が牙をむいた。「いいでしょう。私たちのやり方でやらせてもらいます。でも、勝手に解析にかけないでください。私たちの痕跡は外部の言葉で測れるものじゃない」
黒田は無表情のまま、スマートフォンを片手で操作した。「いいです。法的に触れるところはこちらに任せてください。だが、サーバに上げる必要はある。配信後の音声はアーカイブされます」
綾音の心臓が跳ねた。サーバに上がれば、外部の目はどうしても入る。だが、もし痕跡が真に共同制作の中に刻まれていれば、それは解析で簡単に剥がれるものではない。代償を受け入れるなら、いまここで深く刻まなくてはならない。
放送が始まった。蓮が軽くマイクの前で息を整える。真琴がレベルメーターを見つめ、ミユがギターの一弦に指を置く。翔太は紙コップにコーヒーを注ぎながら、小さな古いカセットテープをテーブルに置いた。そのテープは、彼らが初めて局に来た日の短い会話をこっそり録ったものだった。
録音を再生してもよかった。だが彼らは再生せず、記憶の残響を自らの声でなぞることにした。三十分。息を合わせるように、誰も無理をしない。ただ、そこで起きたことを受け取り、渡し合う。笑い声、ため息、ギターの擦り音、テーブルに落ちる小さな紙片の音。綾音はそれらを混ぜ合わせ、指先でフェーダーを操りながら、静かに自分の能力の回路を開いた。
最初の数秒、何も起きないように思えた。だが内側で何かがほとんど痛みのように裂ける感覚が来た。綾音は目を閉じた。胸の中の古いラベリングの断片──あの日、彼女がある言葉を誰かに押し付けたときの光景、口をついて出た決めつけの言葉が、白い火のように燃え尽きていく。彼女はそれを掴もうとしたが、指の間をすり抜けていった。熱い涙が頬を伝ったが、声は震えなかった。
「綾音、大丈夫?」蓮の声が近い。だが綾音は自分の名前がどこか遠くで響くように聞こえ、同時にその名前を以前ほど強く結びつける記憶が薄くなっていくのを感じた。これは代償だ。彼女は覚悟していた。しかし、実際に失うときの空虚は、覚悟していた語りとは違う。胸の奥にぽっかりと穴が開いた。
放送は続く。彼らの声と音が、スタジオの空気を満たしていく。蓮がぽつりと話した昔の話に、真琴が合いの手