ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第11話「第10章」
深夜一時を回ったスタジオは、昼間とは別の呼吸をしていた。卓上のコンソールからは低い電源音が絶えず響き、照明の蛍光管が薄く震えるように光る。綾音はコーヒーの冷めたカップを片手に、長机の上に広げられた白いロール紙を見下ろしていた。紙面には、明日の公開共同制作で参加者が作る「無名のページ」のレイアウトが鉛筆で薄く描かれている。隅に置かれたマジックのキャップは、指先にインクの匂いを残していた。
深夜一時を回ったスタジオは、昼間とは別の呼吸をしていた。卓上のコンソールからは低い電源音が絶えず響き、照明の蛍光管が薄く震えるように光る。綾音はコーヒーの冷めたカップを片手に、長机の上に広げられた白いロール紙を見下ろしていた。紙面には、明日の公開共同制作で参加者が作る「無名のページ」のレイアウトが鉛筆で薄く描かれている。隅に置かれたマジックのキャップは、指先にインクの匂いを残していた。
「まだいるのか」
扉の隙間から、深山がスニーカーの音もなく入ってきた。ジャケットを脱ぎ、肩にかけたまま長椅子に腰を下ろす。彼の顔には、いつもより疲労と覚悟が混ざっていた。
「明日の配置、最終確認をしておきたくて。……機材の導線、参加者の動線、SNS監視の対応プラン。いい?」
綾音は紙に描かれた小さな矢印を指差した。深山は黙って頷くと、卓上のホワイトボードに消えかけのマーカーでいくつかの記号を書き込んだ。そこへ、三浦(技術)、佐百合(インターン)、工藤(プロデューサー)が次々に集まってきて、空気が狭く濃くなった。
「実稼働に当たって、管理側の条件が増えた」工藤が紙の束を差し出す。社印が押された書類だ。そこには「参加者の身元確認と同意書」が明記されていた。綾音の心臓がきゅっと縮む。
「何としても匿名でやるって話じゃなかったのか」佐百合が声を荒げる。彼女は若く、目が赤い。機嫌じゃなくて、本気で怒っている。
「管理は危機回避のためだと言ってる。でもそのデータは広告に回される。名前がつけば、即『関係の商品化』になる」深山の声は低い。過去の経験がその言葉を重くしていた。
綾音は白いロール紙に手を伸ばした。自分の掌を紙の中心に軽く置くと、いつもの感覚が戻る。共同制作の物にだけ残る「痕跡」が、ふわりと指先に映る。それは色でも声でもなく、微かな温度差と振動の層だった。最初に習ったときと同じく、誰かと二人で紙に触れ、共同で線を引いたものだけが残す痕跡。それを読むと、手を重ねた時の互いの呼吸、指の力の入り方、迷いと確信の混ざり方が草花のように立ち上がる。
だが今は一人だ。綾音は痕跡を呼び寄せることを試み、心の中でそっと問いかけた。「これは、守るべきものだろうか」。答えはぼんやりとした暖色で返ってきたが、同時に不穏な静寂も残った。決めつけると、その色は逆に消える。頭の中で言葉にしないようにと、綾音は手を引いた。
「明日は、ペアごとに短い時間でページを作る。三分から五分のインターバルで。二人が手を重ねる瞬間を作れば、痕跡は残る。だけど……」深山が指で丸を作る。「急いで形だけ作ると、何も残らない。壊れるんだ。ここを理解してもらわないと、危ない」
「わかってる」佐百合が声を絞る。「でも、今日の打ち合わせで、管理側がIDを集めるって言い出して。もし誰かの名前が出たら、あの人の仕事に関わる人間は危ない。だから、守るために早く決めたいんだ」
その言葉に、綾音の眉間が突っ張る。守るための早さと、共同制作の繊細さは相容れない。佐百合の焦りは純粋だが、それが失敗を招くと、傷つくのはいつも参加者だった。
翌日のリハで、それは象徴的に現れた。二組の参加者が、三分で一枚のページを作る練習をすることになった。片方は穏やかな男女。もう片方は、無理に組ませられた工務の健斗と、無口な局員だった。健斗は今日に限って目を合わせようとせず、身体が硬い。
「手、ここに置いて」佐百合が健斗の手を強引に連れて行く。彼女の声には「早く形にしなきゃ」という熱が混じっている。綾音は腕の毛が逆立つのを感じた。早めに終わらせてしまいたい気持ちが、空気をざわつかせる。
二人が同じペンを握り、線を走らせる。速い。マジックの音が擦れる。だが二人の呼吸が合わない。紙の表面に押された指紋は浅く、線はたどたどしく重なった。綾音は手を伸ばし、その紙に触れた瞬間、画面が割れるような感覚に襲われた。通常は見えるはずの温かい色彩が、ノイズのように乱れている。
「止めて」綾音は反射的に叫んだ。だが声が空しく響くだけだった。佐百合の手が滑り、ペン先が紙を引っ掻いた――紙が裂け、インクが滲んだ。健斗は顔を背け、涙が一筋、頬を伝う。
スタジオの空気が一瞬で凍る。裂けた紙は、それまであったはずの痕跡を物理的にも破壊した。綾音は自分の掌に冷たい震えを感じ、目の前にあった残像がひゅうと消えるのを見た。決めつけた瞬間、読み取れていたものは消え、ただの白い紙と傷だけが残った。
「これは……まずい」深山が低く吐き出す。工藤は即座にスマートフォンを取り出し、撮影を始める。彼の指先の動きが、スタジオの状況を外に伝えようとしている。綾音の胸が締め付けられる。裂けた紙の欠片が、夜の光に鋭く反射した。
翌朝、写真は局外のSNSアカウントで共有され、短時間で拡散していた。誰かが「無名のイベントの参加者が不仲で揉めた」と短文をつけた。管理側はそれを口実に、参加者名簿の提出を強く求めてきた。工藤は渋い顔で、管理室のドアを指さした。
「写真一枚で話が変わる。相手が望めば、これで関係を商品化できる」深山は言う。綾音は、あの裂けた紙の白さを思い出していた。共同制作が壊れると、守るべきものが一斉に露出してしまう。能力の制約が、ここまで現実の危機と重なるとは。
だがもっと深刻なのは、別の発見だった。リハ後の片付け中、三浦が机の下から小さな金属の筒を見つけた。指先で触れると、薄い振動が伝わる。RFIDのようなタグだった。綾音は指で弾くようにしてそれを持ち上げ、目で確かめると、冷たい怒りが全身を回った。
「壁か机に仕込まれていたのか」三浦が低く呟く。「誰がどのタイミングで触ったか、物理的な接触の痕跡を拾うシステムを管理側が導入していた。無名のはずが、物理的に追跡される仕組みだ」
そのとき綾音の手に、まるで小さな針が刺さるような痛みが走った。指先にぽたりと血が滲む。タグの表面には別の指紋が付いていた。誰かが意図的にここに置いたのだろうか。綾音は血をティッシュで押さえながら、タグを掌で包み込んだ。冷たさは肌の下まで染みた。
「これは……データ化するための前段階だ。物理接触をデジタルに変換する。そうすれば、いくら匿名のページを作っても、跡を辿れば個人に結びつけられる」深山の声がいつになく厳しい。顔に硬い影が落ちる。
「私たちが考えていたことと、同じ根っこだ」綾音は呟いた。共同制作を守るための手順と、管理が作る追跡の仕組みは、対象を「痕跡」として扱う点で等しい。違いは、痕跡を誰のために使うかだ。互いの痕跡を尊重するのか、それとも消費するのか。
「明日、どうする?」佐百合が問う。目の下に濃い影があり、身体が震えているのは恐怖なのか怒りなのか分からない。
綾音は長い間黙って紙を見つめ、そしてゆっくりと頭を上げた。明確な答えが要る。ここで強引に先に進めば、また紙は裂ける。だが躊躇すれば、管理は次の手を打つだろう。選択肢は二つではなかった。だが、誰かが決めなければ、方向は管理に握られてしまう。
「私たちがやるのは、匿名を守るための『参加の場』を提示すること。強制はしない。参加するかどうかを、各人に選ばせる」綾音