ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ

ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第10話「第9章」

夜九時、局舎の空気は放送機材の微かな振動で満ちていた。スタジオの外、古い会議室のドアを押し開けると、蛍光灯の冷たい光がテーブルの上の未整理の資料と紙コップのコーヒーに落ちている。綾音は肩にかかったコートを脱ぎ、胸の奥で鈍い疲労を押し込めた。今日はやらねばならないことがあった。

夜九時、局舎の空気は放送機材の微かな振動で満ちていた。スタジオの外、古い会議室のドアを押し開けると、蛍光灯の冷たい光がテーブルの上の未整理の資料と紙コップのコーヒーに落ちている。綾音は肩にかかったコートを脱ぎ、胸の奥で鈍い疲労を押し込めた。今日はやらねばならないことがあった。

「来てくれてありがとう」机の向こう側から、プロデューサーの涼(りょう)が小さく笑った。顔には締め切りの線が刻まれている。DJの美香(みか)はヘッドホンを首から下げ、指先でスマホの画面を何度も撫でていた。音響の健太(けんた)は卓の上のフェーダーを指でたどり、インディーっぽいプレイリストを小声で口ずさんでいる。新人の直美(なおみ)はメモ帳に赤い字で項目を書き足していた。

「状況は?」綾音は深く息を吐き、一枚のUSBをテーブルに置いた。そこには昨夜、資料室からコピーした音声ログと、局内部のメタデータの一部が入っている。指標化プログラムの印影を掘り起こした後で見つけた、運用スクリプトの断片だ。

健太がUSBを受け取り、ノートPCに差す。画面に波形が現れる。波形は白く光り、局内の蛍光灯の黄ばみと混ざって奇妙に鮮やかだった。綾音の視界には、音の形に沿って薄い、指で描いたような痕跡が重なって見えた。それは彼女にだけ見える「痕跡」――共同で作ったものにだけ残る、二人の営みのこまかな輪郭だ。

「これが……」美香の声には疑念と期待が混じる。

綾音は手を伸ばし、画面の波形の端に触れた。指先は冷たく、マウスの金属感がじんわりと暖かかった。触れた瞬間、視界の中の痕跡が鮮明になった。誰かの笑い声に続く小さな沈黙、直美がささやいた「いいね」の瞬間、涼が低く呟いた注意の音。音の列に、生活の断片が並んでいる。

「うん、ここに残ってる」綾音は説明するつもりで口を開いたが、言葉にするとすぐに痕跡が揺らいだ。彼女がある言葉を選び、それを確定させるように発音した瞬間――波形の光がふっと薄くなった。

「どうした?」健太が眉を寄せる。

綾音は息を飲み、茫然と目を見開いた。「決めつけちゃだめ。言葉にして確定すると、消えちゃう」

美香が首をかしげる。「消えるって?」

綾音はゆっくりと説明した。口にするたびに、波形の光が消えたり現れたりするのを見ながら。だが説明は断片的で、理屈ではなく事例で示すしかない。彼女は小さなテストを提案した。

「さっきの生トークを、二人で即興でやってみよう。決めつけないで、作っていく。私も見るだけにする」

美香は深く息を吐いてうなずいた。涼は手を差し伸べ、直美はメモ帳を閉じた。健太は録音ボタンを押す。スタジオの間接照明が柔らかく落ち、三人は向かい合った。

「じゃあ、夕暮れの話でいこうか」美香が言葉を投げる。涼が笑い、直美が小さく息を吐いた。雑談が静かに広がる。内容はとりとめのないものだった。誰かが飼っている猫の話、古い映画の台詞、流行らない喫茶店のコーヒーがどうしても忘れられないといった雑感。

綾音は手を机に置いたまま、波形を見つめる。語られた言葉の間に、小さな光点が次々に現れた。共同のリズム、同時に笑った瞬間、同じ音量で息を吸った音。そのすべてが、音声データの中に残る「痕跡」として浮き上がっている。

「見える?」綾音は小声で訊く。

涼が頷く。「うん、ある。ちゃんと、合わさってる」

直美は驚いた顔で、「まるで指紋みたい」と呟いた。

ここまではうまく行った。しかし次の瞬間、局舎の床が僅かに震えた。部署間のチャットがポップアップし、局長補佐の白根(しらね)からのメッセージが届いた。「明朝の人事用評価会議、全データ提出。特にオンエアの『親密性指標』に着目。遅れ厳禁」赤いタグが付いている。

その一言で場の空気が変わった。涼の笑顔が消え、直美の指先が震え、健太は肩をすくめた。

「朝までにこれを編集して、サマリーを出せって……?」美香の声には怒りと恐怖が混じる。

綾音は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。朝の会議でこの局が人と人の関係を数値化して見せるということが、表沙汰になる可能性が高い。もし彼らの発見を含む音声が「親密性指標」に基づき再評価されれば、誰かの評価が決まり、キャリアが振り分けられる。共同の記憶は商品化される。

「時間がない」健太が言った。「こういうときって、編集を急ぐだろ? AIでサクッとタグ付けしてまとめてしまう。そうすれば局は安全だし」

「でも、それだと……」涼が言葉を続けられない。綾音は続きを言った。

「急ぐと、痕跡が壊れる。共同して作る時間を短縮すると、痕跡が分散してノイズになる」

綾音は自分の声が震えているのを感じた。声を絞るようにして説明した。昨夜、資料室で見た運用スクリプトが示していたことと同じ根がここにもある。制度は関係を『確定』することで扱いやすくし、電算された評価につなげた。だが、それは本来の人間関係を壊す機械でもある。

「じゃあ、どうする?」直美が尋ねる。若い瞳は真剣だ。彼女にとって仕事は、これが初めての信念の試験台になる。

「二つしか選択がない」綾音は答えた。「朝までに編集して提出するか、今夜、この場で『名を付けない何か』を公開するか。前者は安全だけど、私たちの共同の痕跡は消える。後者はリスクが大きい。局全体の反発を招くかもしれない――だけど、痕跡は残る」

涼が顎に手をやる。美香は額に手を当て、深呼吸する。「公開って、どうやるの? その痕跡を証拠として出すの?」

綾音は言葉を慎重に選んだ。彼女自身が何をできるか、どこまでが代償かを、この場で見せるしかない。

「私が波形の痕跡を視認して、そこに残っている共同作業の要素を指し示す。でも、その指し示し方にはルールがある。私が『これは愛だ』とか『これは友情だ』とラベルづけする瞬間、痕跡は消える。痕跡を守りたければ、私が言葉で決定するのではなく、私たちが一緒に作るしかない。しかも、作るペースを急ぐと波形が割れるように壊れてしまう」

健太がふうと息を吐いた。「使うたびに消耗するって聞いたけど、そんなにヤバいのか」

綾音は手のひらを内側にして胸に当てた。胸骨の下で、沈むような重みがあった。「長く使うと、声が出なくなる。あと、記憶の輪郭がぼやける。昨日も、資料室から出てきたとき、帰り道を半分忘れてた。代償は、単に疲労じゃない。私自身の輪郭が薄くなる」

直美の目が大きくなる。「そんな……」

「でも」涼が割って入った。「だからって、黙って数値に押しつぶされるのは違う。局が人の関係を商品にする仕組みがあるなら、それを晒して選択させればいい。職員も、聴取者も」

美香は拳を机に置いた。「珍しいよね、私たちが自分たちの声で抵抗するなんて。面白そう」

意志は決まりかけた。しかし、実行方法がまだ固まっていない。綾音は波形を指先でなぞる。痕跡は二人の笑いの合間、ひとつの句読点のように残っている。彼女がこれを「示す」ためには、痕跡そのものを改変せずに、みんなで作り上げるプロセスを見せねばならない。だから彼女は、企てを提案した。

「今夜の深夜番組を使おう。生放送で、私たちが一緒に作る場を見せる。曲も、テキストも、音の合成も、全