楽器店で交換留学生は誰にも言えない失敗を分け合う 第11話「第10章」
工房の午後は、音よりも音のない時間で満ちていた。窓から差し込む西日が棚の木目を金色に浮かび上がらせ、刃物で削られた木片が薄く光る。弦屋楽器店の奥にある小さな作業台で、ナツミの指先はじっと刃を押さえ、リオは細いサンドペーパーを同じリズムで往復させていた。二人の間に積もるのは、音の痕跡ではなく木の匂いと、沈黙を裂くごく小さな呼吸だけだ。
工房の午後は、音よりも音のない時間で満ちていた。窓から差し込む西日が棚の木目を金色に浮かび上がらせ、刃物で削られた木片が薄く光る。弦屋楽器店の奥にある小さな作業台で、ナツミの指先はじっと刃を押さえ、リオは細いサンドペーパーを同じリズムで往復させていた。二人の間に積もるのは、音の痕跡ではなく木の匂いと、沈黙を裂くごく小さな呼吸だけだ。
「この角、もう少し丸めるね」とナツミが言い、柔らかい力で角を撫でるように削る。削りかすが手の甲に舞い落ち、鈍い金属の箱からメトロノームのようなカチッという音が一回だけ漏れる。二人で作っているのは小さなピックホルダーだ。舞台に立つナツミが不用意に落としたピックやボタンを、指で拾えないときにすっと差し込めるような、親密で目立たない道具。共同で制作したものには、彼らの力が反応する。触れ合う痕跡が木に残るとき、その断片から互いの気持ちの匂いのようなものが浮かぶ。だがそれは、相手の本音をむき出しにする機械ではない。二人が手を重ねて作った「物」にだけ、気配が滲む。
リオは掌でわずかな温度差を確かめる。そこに浮かぶのは、ナツミの不安の粒だった。小さな亀裂のように見えて、指でそっとなぞればかさつく感触が手に伝わる。読み取る──と自分に言い聞かせると、胸の奥が鋭く収縮した。呼吸が浅くなり、心臓のあたりで針が飛び跳ねるような痛み。ひとつ息を吐けば随分楽になるはずなのに、リオは無理に息を飲み込んだ。
「どうした?」ナツミが顔を上げる。削りかすが眉に一列に落ちて、彼女の目は心配そうに細まった。
リオは謝るように笑って、手を離さない。「大丈夫。少しだけ……見えるんだ」
言葉の端で、彼は痕跡に触れる。木目の縁に滲むような一連のイメージ——舞台のスポットライト、消えたコード、笑い声に混じるスマートフォンの画面、そしてそれを切り取って広める指先。短い断片でしかなかったが、温度と痛みのセットでナツミの恐れが鮮明になる。彼女が一度、舞台で失敗してから受けた視線。励ましもあったが、匿名のコメントは彼女を枠にはめ、名前と一緒に失敗を並べていた。
「それ、私のこと?」ナツミの声が小さく震える。刃に当たった光が一瞬踊って、木の表面に薄い線が生まれた。リオは視界の端で、それが広がるように感じた。
「いや……確かめるから、話して」とリオが答えかけた瞬間、胸の痛みが増して、言葉が喉に詰まった。痛みを押し返そうとするほど、痕跡は細かい破片になってしまう。物を決めつけるような確信を強めると、反射的に痕跡は溶ける。リオの視界は油絵のようににじみ、ピックホルダーの木目にひびが走るように感じた。
「無理しないで」とナツミが言い、彼の肩に手を置く。手の温度が直に伝わって、針のような痛みが一瞬和らぐ。二つの手が同時に素材を押さえ、作業台の木が軽く共鳴した。共同制作の条件がそこにある。無理に答えを得ようとすれば、物は壊れ、二人の間の頼り合いは擦り切れる。
そのとき、店の外から自動ドアの音とスマートフォンの通知音が重なって聞こえた。斎藤さん、店主の声が間近にして「すみません、ちょっといいですか」と言って、二人の作業台の前に新聞の切り抜きを差し出した。店のカウンターに座っていたミカとジュンが慌てた表情で入ってくる。三人の顔が同時に窓の光を受けて、影がくっきり伸びた。
切り抜きには学校の「タレントショー」募集広告のコピーと、下に添えられたスマートフォンのキャプションが載っていた。そこには次のように書かれている——出演希望者は映像の使用を同意すること、また選考の過程で得られた映像および評価は外部パートナーに提供される可能性がある、という小さな字の文言。ミカの指がその文をなぞる。
「外部パートナーって、どこ?」とジュンが聞く。斎藤さんがため息をつく。「フォルテ社っていうところだ。楽器メーカーじゃない。映像配信と広告の会社だよ。参加の同意書を出すと、映像の権利はほぼ全部向こうに行くって、保護者説明会でもちらっと言ってたけど……」
ナツミの顔色が変わった。彼女の目が作業台の小さな木片に戻る。その木片にまだ二人の指紋が浅く残っている。外に出れば、彼女の一つの失敗がまた誰かの材料に変えられてしまう。あの時の四分の一秒を切り取られて、コメントの餌にされる。ナツミはその想像をすると、肩を震わせて目を伏せた。
「それって、私のことも——」言葉がそこで止まる。ミカが苛立ちを露わにして拳を机に打った。「おかしいよ。誰かの演奏や弱さを商品にして、見世物にするなんて。私たちが守りたいのは、誰かの選択だよ」
会話は一度外へ出ると勢いを増した。ジュンは学校の内部事情を話し、選考を通して有名になった生徒が企業スカウトに繋がるルートを示した。だがその裏で、失敗や恥が評判と数字に変えられている。匿名の評価が個人の進路に影響を与える仕組み。誰かが決めた「盛り上がる素材」は切り取られ、当事者の次の選択の余地は縮む。
リオはふと、手元のピックホルダーに目をやった。自分たちの共同制作物は、誰かの興味の対象にならない。だが同時に、その物に残る痕跡を使えば、誰かの本音をあぶり出せる。しかしそれは、彼個人が痛みを受け止めることで成り立つ行為だ。しかも、はっきりさせたいという欲求が強くなるほど、物は崩れ、二人の関係に亀裂を入れる。
「リオ。もし誰かが私の動画を掘り返してるなら、犯人を突き止めたいの?」ナツミは優しく、でも鋭く問いかける。彼女の指先に力が入る。リオは首を振った。「それは……違う。誰がやったかを突き止めるんじゃなくて、そういう仕組みそのものを止めたいんだ。噂で人を値踏みする場面を作らせないように」
ナツミの目が熱を帯びる。「じゃあ、どうする? 音楽の場を、また誰かの商品にさせないでおける方法なんてあるの?」
そのとき、ミカがバッグから白い封筒を取り出した。中にはA4の紙が二枚入っていて、片方には電子メールのプリントアウトがあった。画面に映るのは、学内の有力な教員とフォルテ社の担当者が交換した親密なやりとり。スカウトに有利な生徒を優先的に扱うこと、失敗が話題性を生むならばえこひいきはやむを得ない、という文面。明確な証拠だ。ミカの手が震えていた。
「これは……どうして、こんなものがここに」斎藤さんが眉を寄せる。ジュンが言葉を飲んだ。「複製を作ってSNSに流せば、学校が動くかもしれない。でも、私たちが公共の場でやると、ナツミの名前もまた晒される。リスクが大きすぎる」
有人決定の構造が可視化されると、解決策は二つに見えた。個人の名誉を取り戻すためにリオが能力で犯人を突き止める道──その代償はリオ自身の身体的負担と、痕跡を強引に確定させることによる共同物の破壊。もう一つは、仲間と共に制度を可視化して公にする方法──危険は分散するが、暴露はさらなる注目と波紋を生む。
ナツミがゆっくりとピックホルダーを持ち上げる。木の表面にはまだ二人が残した小さな凹みがあって、そこに午後の光が寄り添っている。彼女は息を吸って、はっきりと言った。「私、一人でヒーローを望んでない。誰かにこれをやらせて、私がすぐに戻らなきゃってなるのは嫌だ。選べる余地がほしい。