運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る

運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る 第9話「第8章」

倉庫の空気は、まだ夜の名残を引きずっていた。蛍光灯の一つが低くちらつき、鉄の棚にぶつかる電子音が小さく反射する。床には絵の具のしみと、誰かがうっかり落とした紙コップの底に溜まった水。空也は指先でキャンバスの端を撫でながら、古い監視カメラの赤いランプを見上げた。レンズはゆっくりと右から左へ掃く。そこから外れた死角に、夜明けの青が差し込んでくる。

倉庫の空気は、まだ夜の名残を引きずっていた。蛍光灯の一つが低くちらつき、鉄の棚にぶつかる電子音が小さく反射する。床には絵の具のしみと、誰かがうっかり落とした紙コップの底に溜まった水。空也は指先でキャンバスの端を撫でながら、古い監視カメラの赤いランプを見上げた。レンズはゆっくりと右から左へ掃く。そこから外れた死角に、夜明けの青が差し込んでくる。

「目つきが気に入らない」と誰かが小さく呟いた。夏葉だった。濃紺のパーカーを着て、黒い鞄を床に放り投げる。彼女の動きにはいつも決められた素早さがあって、空也はそれを眺めながら、倉庫の塗料の匂いと彼女の体温の混ざりを感じた。

「柳田のやつら、今日の打ち合わせで公開を前倒ししたらしい」と夏葉は鞄からコピー用紙を取り出す。両面印刷された文書には、交流委員会のロゴといくつかの表が印刷されていた。表情を読ませないその目で彼女は読み上げる。「三日後に『保存案お披露目』。校内放送と外部SNS同時配信。評価スコアは部費配分に直結するってさ」

美月が息を詰めた。美月は倉庫の一番奥、古い体育器具に腰掛けていた。膝に抱えたノートに細い字を走らせながら、「生徒の参加率が何パーセント以上かで、共同作業の価値を数値化してる」とぼそり。彼女の声には怒りよりも、恐れが混じっていた。数値は、弱い者の選択肢を奪う刃だと彼女は直感していた。

空也は紙を受け取って、字面を追った。そこには「ライブ評価」「視聴者参加型リアクション」「スポンサー付加価値」の項目が並び、最下部に小さく、「感情の痕跡は標準化可能」と走り書きがあった。空也の胸に冷たいものが落ちる。痕跡──彼が持つその不完全な眼差しの対象が、データとして切り刻まれ、商品になる。

「やらせるわけにはいかない」夏葉が言った。「でも、表向きには保存案を出す。私たちは提出書類で協力的に見せかけて、裏で公開セッションが痕跡をどう消耗させるかを観察する。計測器を仕込むのよ。隠しカメラは俺らが回収する」

「つまり、サンプルを捨て駒にするわけだな」蓮が肩越しに言う。スポーツ部の出入りで鍛えた体つきだが、表情は柔らかい。倉庫の扉の隙間から淡い光が差し込み、蓮の汗の匂いがほのかに空気に混じる。

空也は黙ったまま、テーブルに置いてあった乾きかけのパテに触れた。指にべったりと付き、爪の端には青い線が残る。共同で作ったものにだけ痕跡が残る──それが彼の力の条件だ。だが、最近の問題は、その「だけ」に人が群がると痕跡が消耗すること。誰かの噂や評価がその共同物を咀嚼するように、痕跡は薄れていく。

「空也は?」夏葉が振り返る。彼女の声にはいつもと違う、計算が混じった優しさがある。空也にはわかった。仲間たちは彼を守ろうとしている。彼が守っている季節限定の約束のことを、言葉少なに心配している。

「わからない」と空也は正直に答えた。守ることと晒すことの境が、夜明けと同じくらい曖昧になっている。彼は季節の約束を守るために、共同制作を続けてきた。だがその約束を名物にしてしまえば、噂や評価がそれを食い荒らす。交換委員会の公開は、まさにその食事を招く予感がした。

美月が小さな端末を取り出し、倉庫の隅に置いた。彼女は操作の手際が良く、隠し録画の設定を確認しながら囁いた。「こちらに来るカメラの角度、あの棚の影が使える。ライブ配信中に流れるメタデータを掴めれば、どれだけ痕跡が減るか数値化できる」

「僕は彼女と作る」と空也は言った。言い方が強すぎたのか、倉庫内の空気が一瞬固まる。彼女──季節の約束の相手との共同作業を、彼は自分の目で見届けたい。データ化される前に、二人で作る時間を盗みたい。単純な願いだが、仲間たちの計画はその願いを脅かす。

「だからこそ、表向きの保存案には僕を入れないでくれ」と空也は続けた。「その場には出ない。僕だけ抜ける」

夏葉が眉を上げた。「出ない、ってどうやって検証するの? 柳田は肌感でかけこみ参加を咎める。君が出ないと、彼らはもっと怪しまないか」

「怪しまれてもいい」空也は答えた。「僕は単に目撃者になりたいんだ。記録されるためじゃなく、そこで生まれるものを壊さずに見たい」

仲間たちはそれぞれの判断をした。蓮は素早く倉庫の外へ出ていき、部室に置いてある身体運搬用の軽いシートを持って来ると言った。美月は倉庫の内側にカメラを一つだけ設置し、後でデータを解析すると約束した。夏葉は一度だけ空也を見つめ、鞄の中から小さなUSBを取り出した。

「私には内部のルートがある。柳田のメールの一部を抜き取ってきた。これで配信スケジュールの微修正が見える」彼女はUSBをじっと見つめる。「ただし注意。表に出せば君の関与がバレるかもしれない」

空也はそれを受け取らない。手を伸ばしたが、躊躇が戻り、手はそのまま空中で止まる。みんなが自分のために動いていることを知りながら、なぜか彼は孤立を選んでしまった。仲間たちは決して彼を置き去りにしているわけではない。けれど、彼の約束は二人だけの制作を前提にしている。それを見守るために裏方に回すという提案が、彼の中の不安を刺激する。

夜が明けて、学校は動き出す前の静けさを引きずった。来客用のチャイムが遠くで鳴り、掃除当番の足音が廊下を渡る。空也はキャンバスを抱えて倉庫の片隅へ行き、白い布をかぶせた。布の下にあるのは、彼と季節の相手が一緒に作った小さなオブジェだ。手の跡のついた粘土と、交差した指の跡が残る木片。二人の息遣いがこもっていた。

夏葉が小さな声で告げた。「もし、公開が始まったら、君はその場に来ないでくれ。だけど、今夜だけは――」彼女は言葉を切り、そして続けた。「今夜、委員会のサンプルを盗み出す。生放送のサーバーの一端にアクセスして、配信を遅らせる。彼らが我々の裏を取る前に、一度だけ確かめる時間を作る」

空也の胸が締め付けられた。「盗むって、だめだろ。そんなリスクを取らせるなよ」

「私たちで決めたんだよ」と夏葉は静かに言う。「君を守るって」

その言葉は温度を持っていたが、同時に何かを奪うものでもある。空也は決意を固めようとした。だがそのとき、倉庫の外側にある監視カメラが静かに軋む音を立て、方向を変えた。赤ランプが一瞬だけ強く光り、録画のインジケーターが点滅する。倉庫の隅に仕込まれた小さな隠しカメラのLEDも同時に淡く点滅した。誰かが無言で彼らを見張っている。

「来るわよ」と蓮が低く言った。「今夜はやる。俺たちでやる」

空也は膝をついて、布をゆっくりと剥がす。手の跡のついた木片は、冷たく、しかし確かな温度を保っていた。彼は自分の能力を使ってみる。共同で作られたものに残る痕跡の端を、そっと指でなぞる。薄い光のようなものが指先に触れ、過去の一場面が一閃する──相手の笑い声、かすかな手の震え、季節の空気の塩気。だが次の瞬間、空也はその光景に名前をつけようとしてしまった。心の中で「これは彼女の告白だ」と決めてしまった瞬間、光景はすっと霧のように薄れていった。遠ざかる。それが彼の能力の禁忌だった。

「見えない!」空也は声を張り上げる。手から伝わるものがなくなり、木片はただの木くずの塊に戻った。

夏葉がすぐに駆け寄り