運動部の倉庫で休学中の画家は季節限定の約束を守る 第10話「第9章」
倉庫の中は、昼間の体育館とは違う時間を持っていた。蛍光灯の直線が棚の影を引き伸ばし、古いサッカーボールの表面に積もった埃が弱い風にそっと舞う。釘打ち台の端に置かれた木のパネル——空也と葵が三日前に仕上げた共同作品は、その不揃いな釘の列と、指の跡が残る塗膜の重なりで、薄暗がりの中でも存在感を放っていた。
倉庫の中は、昼間の体育館とは違う時間を持っていた。蛍光灯の直線が棚の影を引き伸ばし、古いサッカーボールの表面に積もった埃が弱い風にそっと舞う。釘打ち台の端に置かれた木のパネル——空也と葵が三日前に仕上げた共同作品は、その不揃いな釘の列と、指の跡が残る塗膜の重なりで、薄暗がりの中でも存在感を放っていた。
シャッター音がした。機械的な、軽い音。倉庫の入口近くで、野中がタブレットを持って立っている。彼の背後には生徒会文化委員の面々が四、五人、スマートフォンの画面を覗き込んでいた。タブレットのスクリーンからは、薄い青い線がパネルをなぞるように動き、数値が浮かんでは消えていく。光が埃にぶつかり、青いゲージと棒グラフが微粒子の中で揺れて見えた。
「つながりスコア、78。可視化完了」野中が声を張る。声は誇らしげだった。周りから、ちらりと感嘆とも嘲りともつかない小さな反応が漏れた。
空也は、棚に隠れたまま息を飲んだ。作品の表面に、いつものように痕跡が淡く揺れている。葵と自分の呼吸、指先の温度、迷いの時間——共同で作ったものにだけ残る、その“気持ちの痕”だった。普段はその痕跡を手探りして、声にせずに相手に寄せるやり方でしか確かめられない。だが今、野中のタブレットの画面で、何かが縮んでいくのを感じた。痕跡は数値とグラフになって、刀で削がれるように現実から切り取られていく。
葵が飛び出す。足音が板床に鋭く当たり、空也の胸がつんと痛んだ。彼女の顔は真っ赤で、呼吸が荒い。
「勝手に撮るな! これは私たちの——」葵の声は震えていたが、委員たちの間でそれは簡単に水音のように消えるはずだった。
野中は肩をすくめ、タブレットを葵の見える位置へ差し出す。「公表用画像を撮ってるだけだ。祭で展示するんだ。客観的に記録しておけば、交流の度合いも分かるだろう。スコアで補助を決める提案も出てる」
スコア——その一言が空也の鼓膜を何かで殴ったように響いた。スコアで、補助を、決める。数字がひとつ入れば、人が選ぶ余地は減る。共同で作られた痕跡が、選別の材料にすり替えられていく。
空也は衝動に駆られて飛び出した。棚とスローダンを間に割って、葵の横へ走る。手を伸ばし、パネルにかぶせられた透明の保護フィルムに触った。塗料のざらつきが指先に伝わる。痕跡が、いつものように彼の中でうごめく。だが同時に、デジタル化された“断片”が彼の認識の中に入り込み、熱に焼かれるように痛みが走る。
「やめろ、野中。これは私たちのものだ。勝手に数値にするな」
野中は眉をひそめ、冷たく笑った。「個人の所有よりも、公共の資源の方が大事だってことだ。つながりの証明は必要なんだよ。進路相談やサークルの配分、そういうのは公平であってほしいだろ?」
公平。言葉はどこか虚しく響いた。空也は、葵の腕に残る彼女の手のひらの跡を見た。夕べ二人で押さえつけながら作った瞬間の、細かな圧力の違い。共同制作はいつも、同時に不安と希望を生んだ。彼はその一つ一つを大切に保存するつもりだった。
だが野中のタブレットのスクリーンには、線が一本一本数字に丸められていく。色相の変化を「共感度」と名付け、筆圧の変動を「連携指数」として棒グラフに埋めていく。葵の指が小さく震え、唇を噛んだ。
「私たちは作品を作る時、考えながら合わせてる。けどそれはスコアじゃない。ここに映るのは断片で、私たちの決められる部分を奪ってる」葵が言った。
「決められる部分を奪う?」野中の声に、嫌味が滲む。「学校は効率化が必要なんだ。誰が誰と合うか、誰がどれだけ支援を受けるべきか、感覚的なものに任せてたら損失が出る。データがあれば公平だ。僕らはただ、作業をしているだけさ」
作業。空也の中の何かが小さく齟齬を起こした。彼は手のひらに汗を感じる。作業、と言う言葉と、共同制作のあの繊細な時間が噛み合わない。彼の能力は「共同で作ったものにだけ残る痕跡」を読み取る。だがもしその痕跡が公共の計測器で数値化され、保存され、政策に用いられるなら——その痕跡はもはや彼と葵のためのものではない。
「これ、どうすれば止められるの?」葵の声は消え入りそうだったが、そこに怒りが混じった。怒りが、周囲にいるいくつかの視線を引き寄せる。体育会系の面々が、筋の入ったまなざしで野中を見ている。ミナトが懐から携帯を取り出し、画面を覗いていた。彼と彼のチームメイトは、最近スコアが低いという噂の当事者だった。
「大会の補助金がこないみたいだ」とミナトが小声で言う。表情は落ち着かない。野中の計測は、既にクラブの運営に影響を及ぼしていた。
空也は咄嗟に、手近の段ボールを引っ張り寄せ、パネルを覆い隠そうとした。たった一枚の段ボールで、写真を撮らせない間を作れるかもしれない。だが葵がそれを遮るように空也の手を掴んだ。
「そんなの——急いでやっても意味がない。急ぐと壊れる」彼女の目は真剣だった。言葉は、彼の内側の約束を突いた。二人が共同で作るものは、急かされれば繋ぎ目が甘くなり、痕跡はバラバラになる。彼らのやり方は、時間と対話と、ためらいの中で生まれる。急ごうとして無理に手を重ねれば、作業自体が壊れる。
空也はその瞬間、手を引っ込めた。思い出す。路地で一晩かけて漆を塗った時、二人で息を合わせる瞬間にだけ、痕跡がくっきり残ったことを。早まって終わらせた別の作品では、触れたはずの感情が薄く、彼には何も読めなかったことを。代償は、そのたびに体のどこかが痛んだり、しばらく見えなくなったりすることだった。痕跡を無理に確定させる行為は、自分の感覚に穴を開けるように感じられる。
「ここで殴り合っても仕方ない」と野中が言う。彼はパネルを指さしながら続けた。「その代わり、校外にデータを保存して、外部の研究にも提供する予定だ。学内だけじゃなく、コミュニティ全体の交流の質を上げるためにね」
校外。言葉が倉庫の壁を伝い、冷たい現実を運んできた。外部の研究、クラウド、バックアップ。痕跡が一度デジタル化されれば、削除は難しくなる。外部に持ち出され、解析され、再利用される──そんな未来が、空也の胸を締め付けた。自分たちの手の温度が、いつのまにか記録装置のメタデータになってしまう。
葵の鼻が膨らんだ。歯を食いしばる。彼女はゆっくりと一歩前へ出た。
「それなら私たちで止める。ここで、その写真を撮らせるわけにはいかない。倉庫は私たちの制作の場所だし、勝手に取り出すなら取り戻すだけ」葵の声は震えていたが、決意がそこにあった。「私、委員会に抗議する。大会の展示に出すなら、私たちの許可が要るって書面で提出する。それでも強行するなら、外部に告発する」
周りにいた数人が顔を見合わせる。ミナトは黙ったまま、小さく頷いた。部員のうちの一人、文芸部の咲良が前に出る。「私も賛成。作品を勝手に数値化することには反対する。人の感情をスコアで切り分けるのはやめるべきだ」
空也は胸の中で、何かが固まるのを感じた。誰か一人の決意で全てが変わるわけではない。だが複数の意思が重なると、制度に対して小さな亀裂を作れるかもしれない。葵が一歩踏み出すのを見て、空也は自分ができることを考えた。能力を使って委員の