市民プールで完璧主義の生徒会長は本音を言う練習をする 第5話「第4章」
プールの水面が夕陽を反射して、低いうねりを作っている。塩素の匂いがいつもより強く、コンクリートに残った水滴が靴底に冷たくまとわりついた。澄は濡れたヘアゴムを握りしめながら、唇をかすかに震わせた。生徒会室の蛍光灯とは違う、屋外の空気の厚みが、いつもより自分の声を確かめさせる。
プールの水面が夕陽を反射して、低いうねりを作っている。塩素の匂いがいつもより強く、コンクリートに残った水滴が靴底に冷たくまとわりついた。澄は濡れたヘアゴムを握りしめながら、唇をかすかに震わせた。生徒会室の蛍光灯とは違う、屋外の空気の厚みが、いつもより自分の声を確かめさせる。
「ここでいい?」村上祐里がバスタオルを肩にかけて近づいた。祐里の顔はまだ赤く、ゲーム感覚で消費された名前の痕跡が帽子の縁に残るようだった。澄は目を逸らさずにうなずいた。
「うん。ここでやろう。声の練習、じゃなくて──本音を出す練習。だけど今回は、その前に『共同で作る』試しをする」
澄はバッグから小さなパックを取り出した。石膏の粉、色のついた細いガラス片、小さな木製の枠。それは学園祭の時に飾るモザイクタイルをいくつか作る材料だった。共同で形にする。澄の能力はそういう対象にだけ、二人の気持ちの「痕跡」を薄く残す。文字ではなく、触覚に近い印象が出る。澄はまだ言葉にできないものを、誰かと一緒に作ることで確かめたかった。
祐里の指先は少し震えていた。澄はわざとゆっくりと手を洗い、ぬるい水で石膏を混ぜた。指先が粉に当たると、ざらついた冷たさが脳に静かな注意を呼び起こす。澄は深呼吸して、自分の内側にある「完璧でなければならない」という声を押さえた。今は指先で話す時間だ。
「力を合わせるって、こういうことだよね」と中原凜が網を持って寄って来る。生徒会の会計だ。彼女の目は正確で、疲れていても誤魔化さない。三人で、木の枠に石膏を流し込んで、ガラス片を押し込んでいく。澄は祐里の手と中原の手が自分の中に触れるのを感じた。共同作業の接触は、言葉よりも確実に“つながり”を伝える。
石膏が固まり始めるまでの数分の間に、三人は他愛のない話をした。祐里は掲示板のことを避けて、昨日見つけた古い漫画の話をした。中原は来週の会計報告の締め切りを呟いた。澄はその雑談を、表層だけで聞いた。内側で、彼女の能力が微かな振動を始めるのを感じた。触れ合った手から、冷たい波紋のように、祐里の最近の感情が淡く流れ込む。
固まった石膏の表面に、三人はおもむろにガラスの破片を並べた。祐里は小さなブルーの欠片を、自分の名の「村」と読めるように置こうとした。その瞬間、澄の中で視界がわずかに変わった。石膏の奥に、薄い記憶のような模様が現れる。言葉ではない。重なった手の温度、唇の端に浮かんだ言い訳、夜一人で見た掲示板のスクリーンショット──それらが、淡い光の筋としてタイルに滲んだ。
澄は指先をそっと触れて、その痕跡を探ろうとした。だが、同時に頭の中で「これは祐里の苦しみだ」「ここに書いてあるのは裏切りじゃない」と確定させようとする声が湧き上がる。澄は無意識に答えを与えたが、能力はそうした「決めつけ」に弱い。肉声で確かめもしないうちに結論を出すと、痕跡は赤くにじむインクのように滲んで消えてしまった。
「澄、どうしたの?」中原が眉を寄せる。祐里の指先が固まった石膏に食い込んだまま止まっていた。
澄は悔しさに声をひそめた。「ごめん、ごめん。ちょっと、見方を……急いだらダメだった。もう一回、最初からやる」
彼女は自分の決めつけが痕跡を曖昧にしたことを知っていた。能力を使うときの一番簡単な失敗だ。思い込みは相手の本当の色合いを溶かす。澄は自分の心臓が不規則に跳ねるのを感じた。完璧主義は対人関係では毒にもなる。それでも彼女は、言葉で誤解を正す前に「見える」ものを確かめたかった。
「時間、ちょっとある?」祐里が小さく言った。瞳が濡れている。澄は深呼吸して、もう一度手を洗った。今度は何も決めずに、ただ素材に身を任せる。祐里も、息を吐くように肩の力を抜いた。手が触れ合う角度が変わり、石膏に入る温度も変わった。
痕跡はゆっくりと姿を取り戻した。今回は絵のように具体的だった。祐里の気持ちの輪郭が、薄い青と灰のパターンで現れる。澄には、それが「怖さ」と「守りたいもの」とを同時に示しているように見えた。怖さは掲示板の注目を浴びることで、祐里が大切にしている絵の顧問との関係が壊れることを恐れている――けれど「守りたいもの」は、自分が描いたキャラクターたちを守りたいという純粋な願いだった。
澄は息を詰めた。言葉はいらない。タイルの模様が示すものを、そのまま祐里が抱えていることを受け止めるだけでよかった。だが、能力には別の代償がある。澄が痕跡を読み切った瞬間──喉の奥が空っぽになり、ふいに声が出なくなった。言葉が、舌先からするすると逃げていく。
「澄、声が──」中原が驚く。澄は無理に喉を動かしてみたが、出るのはかすれた息だけだった。能力を使うたびに、澄は短時間、言葉の輪郭を失う。喉が渇く、記憶の一部がにぶくなる、そして数分間だけ会話が不自由になる。彼女はそれを「代償」として受け入れていたが、今日ほど痛烈にその代償を感じたことはない。
祐里が澄の顔を覗き込み、小さく笑う。「澄はそういうところが、不器用だよね。でも、ありがとう。見てもらえてよかった」
澄は無言でうなずく。声が出ないことで、本当の練習、つまり「本音を言う」機会を自ら奪ってしまっている皮肉に胸が締め付けられた。だが同時に、タイルに残った模様は確かな事実でもあった。祐里が消費される存在ではないこと。澄はその事実を、言葉に出せなくても胸の奥に収めた。
そこへ、遠くから足音が近づいた。スマートフォンを片手に持った女子生徒が、プールサイドのコンクリートの上にしゃがみこんでこちらを見ている。黒いセーラー服に白いエプロン――生徒会とは違う、人気グループの一員らしい。佐伯園子と名乗った。彼女は掲示板の話題を追いかける側面で顔が知られている。
「なに作ってるの?」園子の声ははっきりしていて、少し呆れた調子が混じっていた。彼女の目がタイルに残った淡い模様を一瞬で見抜く。覗き込む手つきに、悪意はない。けれどその好奇心は、いつも人の境界を超える種類のものだった。
祐里の肩がすくんだ。中原は警戒を緩めない。澄は口を開こうとしたが、代償で声が戻らない。園子は少し間を置いて、にやりと笑った。
「へえ、手作りの証拠ってやつ? こういうの、受けがいいんだよね。学園祭で目玉にすれば、掲示板も盛り上がるんじゃない?」
その言い方は、掲示板を"話題"として消費する者の典型だった。澄の胸に、古い怒りがぽんと弾ける。しかし同時に園子の指先に見た抑えられた震えが、澄には微かに読めた。園子の瞳は、澄が先ほど感じたのと同じ種類の「守りたいもの」に触れていた──家庭の期待なのか、誰かへの約束なのか。澄はふと、自分が相手の内面を勝手に定義してしまう危うさを思い出す。
「掲示板で盛り上げるって、そういうことじゃない」と澄はしてみせるつもりだった。だが言葉はまだ戻らない。代わりに、澄は行動で示すことにした。タイルを園子の手に差し出す。触れてみろ、と。園子は少し驚いてから、皮肉混じりの笑いを浮かべつつも受け取った。
指先が触れた瞬間、園子の表情が変わった。普段はきらびやかな表情の裏に隠れていた疲労、そして「やらなければならない」という必死さがほんの一瞬、タイルの中に