市民プールで完璧主義の生徒会長は本音を言う練習をする

市民プールで完璧主義の生徒会長は本音を言う練習をする 第4話「第3章」

午後の光がプールの水面を切り刻む。光の刃の一つが、縁に座る澄の膝元に落ちて、濡れたインデックスカードに斑点模様を作った。カードはまだ紙の匂いと塩素の、どことなく消毒液に似た透明な匂いを混ぜていて、縁を撫でる風が湿った髪を耳に貼りつける。

午後の光がプールの水面を切り刻む。光の刃の一つが、縁に座る澄の膝元に落ちて、濡れたインデックスカードに斑点模様を作った。カードはまだ紙の匂いと塩素の、どことなく消毒液に似た透明な匂いを混ぜていて、縁を撫でる風が湿った髪を耳に貼りつける。

澄はカードを両手で挟んで見下ろした。片方の掌底がわずかに熱く、裏側はまだ冷たさを残している。そこに残るのは、言葉ではない。「匂い」と「温度」の混ざったようなもの。手を離してもカードの表面に残る、二人が何かを一緒にしたときにだけ生まれる痕跡。澄はゆっくりと息を吐き、声に出さない練習をするようにカードに触れた。

「……今日は、本当は誰かに甘えたかったんだね」

言葉を結論に持っていかず、あくまで観察のままに言葉を紡ぐ。こう言ってしまうと見えなくなるというルールを、澄はまだ身体に馴染ませているところだ。観察――推測ではなく、感じたものそのままを並べる。カードの上に残るのは淡いレモンのような匂いと、人差し指の先がわずかにぬくもりを帯びた箇所だった。彼女はその「ぬくもり」を「甘えたい」という言葉へすり替えず、ただ「ぬくもりがある」と述べ、目の前の空気を共有する。

「会長、遅いよ」

足音がタイルに反射して、澄は顔を上げた。来たのは副会長の藤堂真琴(とうどう・まこと)。薄いゴーグルの跡が瞳の下についていて、髪はプールの水で重く濡れている。真琴は手に小さな陶板を持っていた。鮮やかな絵の具で縁が塗られ、まだ乾いていない光沢がある。

「実験、だよね?」真琴が笑った。笑いは水の中で反響するように柔らかく、澄の肩の力が抜けた。

澄は黙って頷き、真琴の持つ陶板の横にカードを置いた。二人で同じ面に掌を押し付ける。真琴は小さく息を吸って、澄に合図する。二つの手が同時に陶板に触れたとき、指先に小さな感覚が流れ込んだ。暖かさと、苦笑いを含んだ軽い震え。澄はそれを逃さないように、ただ感じることだけを選ぶ。

「……くすぐったい、みたいな気持ちと、後ろめたさのような温度」澄は声に出して言った。決め付けず、あくまで列挙する。真琴は手の位置を動かさず、じっと澄を見つめている。

「うん、そう。ね、会長、これならどうかな。練習台の言い方をひとつ決めよう。『今は、ちょっと照れているんだね』って言ってみて」

真琴の提案は巧妙だった。言葉に確定させるのではなく、仮の言い方を提示する。澄はその語尾を口に出して、皮膚に残る痕跡をもう一度確認した。痕跡は揺らめきながらそこにあった。決め付けなかったからだ。二人の手の間に生じたのは、推測ではなく、共同作業が作り出した説明不能の「温度」だった。

「できた」と澄は言った。本人に向けるべき本音の言い方のひとつを外に出せたことが、驚くほど静かな充足感を与えた。真琴はふくれっ面をして見せてから、ぱっと笑った。

そのとき、プールの奥から足音が追いついてきた。水の上を滑るような足運びで、やってきたのは水泳部の有馬琉也(ありま・りゅうや)だった。彼の髪はまだ滴を落とし、ユニフォームの襟元に水滴が光る。誰とでも笑うわけではない彼の顔が、こちらを向くときだけ少し柔らかくなるのを澄は知っている。

「会長、真琴……何やってんの?」

有馬の声はいつも少し乾いている。澄はカードと陶板をしまう間もなく胸がざわついた。有馬は両手を腰に当てて、じっと二人を見ている。プールサイドに立つ三人の輪郭に、夕陽が斜めに当たって影を延ばしていた。

「ちょっと――練習よ。ごめん、有馬。手伝ってくれる?」真琴は即座に有馬を巻き込もうとした。真琴の口調には、急ぎの線が走っている。放課後の集合に間に合うように、という学校的な時間の圧力が彼女の背中を押していた。

澄はためらいながらも頷いた。共同で作ること。二人以上で、同じ時間に何かを形にすること。それが痕跡を残す条件だ。だが、その条件は繊細だった。急ぎすぎると、あるいはどちらかが手を引くと、陶板に残るものは割れてしまう。

有馬は無言で陶板の前に立った。真琴が二人に顔を向け、合図を送る。三人の掌が同じ面に降りた瞬間、澄は違和感を感じた。真琴の手に無意識の力が入っている。早く終わらせたいという焦り。澄はその焦りを制御しようとして、言葉を出す代わりに深く息を吸った。

しかし、有馬の手は硬く、澄の指の力と同期しない。三者の力がぶつかると、陶板が微かにきしむ音を立てた。そこに残ったのは、暖かさでも匂いでもなく、粉っぽい割れ目の感触だった。澄は手を離す。陶板の表面に走った亀裂が、二人分の指紋を歪ませる。

「ごめん、今の駄目だ」真琴の声に苛立ちが混じる。澄は顔を上げ、有馬の表情を見た。彼は一瞬眉をひそめ、次に顔を引き締めてプールの方へ視線を向けた。

「謝ることじゃない。急ぎすぎただけだろ」有馬の声は低い。透き通るように涼しく見えた目が、しかしどこか冷えている。澄は自分の胸が縮むのを感じた。共同制作は壊れた。それはただの陶板の亀裂以上の意味を持った。誰かの急ぎや、会話の端折られた事情がすぐに結果を出してしまったのだ。

澄は陶板に残った亀裂の向こう側を見て、初めてはっきりと気づいた。自分が「これはこうだ」と結論に飛びついた瞬間、そこに残っていた痕跡は薄くなっていった。急いで結論を言うこと、あるいは急がせること――それ自体が痕跡を破壊する。

「俺は――別に、そんなことで怒ってるわけじゃ」有馬は言葉を探した。顔の筋肉がわずかに動く。澄はその動きに反射的に意味を当てそうになった。だが、思考を急いで埋めるほどに、カードや陶板に残る感覚は消えていく。澄は手を引き、口を閉じた。

しばらく沈黙が流れる。プールの水が壁にぶつかって小さな音を立てるだけだった。真琴が深く息を吐いてから、「あたしたち、もっと時間を取ろう」と言った。そう言いながら彼女は陶板を丁寧に拭き、ヒビを見つめる。誰もが自分の手の中にある脆さを自覚した。

「ごめんね、有馬。急がせてしまって」真琴の声が低くなる。澄は自分の声でもう一つの試験をすることにした。結論を出さずに、感覚を言葉にする練習。そこにただ「ごめん」とだけ入れてしまうと、謝罪の真意が形骸化するかもしれない。澄は慎重に言葉を選んだ。

「さっきの陶板は、触れ方が揃わなかった。そう感じた人がいる、ということだけ分かった」その言い方が功を奏したのか、空気がほどけるように少しだけ柔らかくなった。有馬は頷き、真琴の目が少し和らいだ。

だが、その代償は後から来た。澄の胸の奥に、空洞が拡がるような感覚が押し寄せる。何度も人の痕跡を拾い上げては言葉に変える作業は、澄自身の確信を薄くしていくようだった。彼女は自分の内側で声を出してみる。本当に言いたい言葉――好きとか、苦手とか、疲れているとか。声は出るのだが、どれも芯を欠いているように聞こえた。自分の中から出た言葉なのに、向ける先が曖昧だ。使いすぎると、自分の本音にさえ触れられなくなるのかもしれない、という怖さが澄を襲った。

真琴がふと立ち上がり、プールの縁に座って足を水に浸す。有馬は硬い顔のままタオルで髪を拭いている。澄はその二人を見ながら、自分がやっていることの輪郭を確かめようとした。能力の