天文台で未来を怖がる恋人たちは同じ夢を選び直す 第18話「第16章」
観測ドームの鉄の匂いが鼻腔に絡みついた。夜の空気はまだ湿っていて、屋根の隙間から差し込む街灯が埃の粒を金色の塵に変えている。ミナトは古い作業台に肘をつき、二人で折りかけた紙の星を見下ろした。半分まで切られた紙の切れ端が風に揺れ、かすかな紙擦れの音だけが答えた。
観測ドームの鉄の匂いが鼻腔に絡みついた。夜の空気はまだ湿っていて、屋根の隙間から差し込む街灯が埃の粒を金色の塵に変えている。ミナトは古い作業台に肘をつき、二人で折りかけた紙の星を見下ろした。半分まで切られた紙の切れ端が風に揺れ、かすかな紙擦れの音だけが答えた。
「来るよ、と言ったんだよね」カズが言った。腕組みをして、ドームの中心へと向かう。彼の足音は重く、ひとつひとつ床を確かめるように響いた。カズはミナトの友人で、職業訓練校で木工を教えている。ミナトとアヤが共同で作るものに初めて触れた日から、彼は黙っていたが、いつも彼らの手仕事を信じて見守ってくれた。
「向こうの駅にもう着いたんだろう?」ミナトは声を抑えて訊いた。手のひらの中で、紙の星の角が冷たく感じられる。胸の奥が痺れるように痛むのは、風のせいか、それとも昨日の屋上でアヤが吐き出した息のせいか。
「いや。まだだ。だが確認した。審査通知が出て、アヤの住所変更が止められてる」カズの声は低い。ドームの一角で、観測機器の小さなランプが興奮して瞬いた。
その言葉が落ちた瞬間、ミナトの視界に能力の兆候が差した――と言ってもそれは見えるものではない。彼はそれを「触覚の残響」と呼んでいた。二人が共同で作ったものの上には、微かな振動というよりも、温度の違いのようなものが刻まれる。手を置くと、そこだけ時間がほんの少し遅く流れる感覚がして、それが痕跡になる。ミナトはその痕跡を読む術を持っていて、そのときだけ「二人が同じ夢を指すかもしれない」という確信を手に入れられた。
だが今日は、痕跡が薄かった。ミナトが紙の角に触れても、そこに戻ってくるはずの温度の残滓がなかった。指先が白くなるほど力を込めると、かえって紙が切れた。
「急ぎすぎたな」カズが柔らかく言った。「急ぐと、壊れるって前に言ってただろ。二人で作る時間を奪うみたいなもんだ。」
それは、ミナトが恐れていたことだった。能力のルールは単純で残酷だ。痕跡は「共同で作った物にだけ」残る。言葉やメッセージを一方的に押し付けても、そこに彼女の本心は現れない。さらに、ミナトが自分の都合で痕跡の意味を決めつければ、痕跡は光を失い、逆に何も見えなくなる。彼はそれを経験していた――別れ話を強引に引き延ばした日、軋むような胸の痛みとともに共同の記憶が白く霞んだ。
「登録してしまえば、安全じゃないのか?」と、ドームの入り口から担当の声がした。選好局の徽章が反射して光った。公的な手続きに「共同の意志」を登録すれば、移動や住居の制限は緩くなる。この街では、関係の形式を公式に記録することで生活の補助を受けられる仕組みがあった。噂はそれを望む人々を安心させるが、同時に関係を数値化し、外から操作可能にする。
ミナトは顔を上げた。外套の襟に金具を一列に並べた女性が、観測ドームの入り口で腕を組んで立っている。彼女の目は公文書のように冷たいが、仕事柄、苦々しさも帯びていた。
「登録は、二人が共同で何かを作った証拠が必要です」と彼女は言った。「ここにある物は――いま修復中ですか? それならば正式な証拠になります。住所変更の保留を解除するには、手続きを。」
ミナトは紙の星をぎゅっと握った。心臓がバチンと跳ねる。登録すればアヤは移動できるだろう。だがその代わり、二人の関係は公的な枠組みに入れられる。彼が最も恐れているのは、アヤの「主体性」が制度に乗っ取られ、噂という形で消費されることだった。彼女が自分の意志で選ぶ余白を、彼は守りたかった。
「登録はしない」ミナトは声を研いだ。決めるべきは自分だと、誰にも言わせたくなかった。だがその瞬間、傍らのランプがひとつ、ぷつりと消えた。紙の星からかすかな裂け目が走り、切れ端が床に落ちる。ミナトの胸に鋭い痛みが走った。能力が代償を取ったのだ。痕跡を決めつけようとし、制度に屈するかもしれない未来を想像しただけで、共同制作の結び目が切れた。
「それって、代償?」カズは眉をひそめる。観測ドームの金属板に体温が吸い込まれていく感じだ。ミナトはうなずく。痛みは体の奥を伝って、吐き気のような虚脱を残す。能力の代償は、しばしば心身のバランスを狂わせる。決断を急いだとき、相手の存在を読み違えたとき、能力は罰として何かを奪う。
「君たち自身が作るんだろう?」登録官が言う。「共同制作の時間が取れないなら、公的な代替措置で忙しい人の権利を保護できます。」
「代替措置って、何だ?」カズが吐き捨てるように訊いた。
「監督付きの共同制作プログラム。私たちが指定した場所で、決められた手順で作れば」女性は口角をあげた。「効率的です。人々は選択に迷わなくて済む。」
ミナトの手の中で、紙の星の一片が紙粉のように崩れ落ちる。彼は急いでその破片を拾い上げようとしたが、力が入らない。カズが前に出て、登録官の前に立った。
「それをやったら、アヤの選択を奪うことになる」カズは言った。彼の声には教室で生徒を励ます時の厳しさが含まれていた。「俺は他人の人生をチェックリストにする奴らを信用しない。君たちが言ってるのは安全じゃなくて支配だ。」
登録官は冷たく笑った。「現実には選択肢が多すぎる。迷う人は社会負担になる。秩序のためには――」
言葉はそこで途切れた。天井のドームが小さく鳴り、外の風が強く吹き込んだ。ミナトはその音を、どこか遠い放送塔の警報のように感じた。能力の痕跡が切れたときに出る、彼にしか聞こえない断末魔のような音だ。
「やめてくれ」ミナトは吐くように言った。「俺たちは、制度に預けたくない。アヤの決める余地を欲しいんだ。待つって約束した。俺は待つ。」
登録官の顔に、一瞬だけ諦めにも似た影が走った。だが彼女は書類を取り出し、冷たく言った。「では、保留は継続します。だが忘れないで。保留はいつまでも保たれない。期限が来れば、法的な措置を取ります。」
「法的って何だよ」ミナトは声を絞り出した。心臓の痛みが腕の先まで広がる。能力が代償を払わせたのは、決断を先延ばしにする彼への警告でもあった。逃げようとする者の手をつかむため、制度はそういう仕掛けを用意していたのだ。
登録官が出て行くと、ドームには静寂が戻った。ミナトは膝をつき、床に落ちた紙片を拾い集める。彼の指先に残った温度は冷たくなっていた。共同で作られたものから痕跡が消えると、そこに在った彼らの時間もまた、薄くなっていく。彼はその感覚を噛みしめ、初めて自分の恐れの正体を認めた。恐れは、彼女を縛り付けないためのものだと自分に言い聞かせながら、同時にそれが彼女の決断を奪う可能性があることも理解していた。
「ミナト」携帯が震えた。画面にはアヤの名前が表示されている。胸が跳ねる。彼は躊躇いながら出た。
「どうして・・・?」声は震えていた。彼女は、遠くの雑踏の中にいるような気配で話した。息遣いが微かに荒い。
「審査が入った。住所変更が保留になった」とミナトは説明する。言葉はぎこちない。アヤの息が止まるのが分かった。
「そう・・・」彼女は柔らかく笑った気がした。「全部を制度に預けるなんて、私らしくないね。」
「だから・・・」ミナトはどんな言葉を選べばいいか分からなか