小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す 第25話「第23章」
雨音が糸を引くように編集室の窓を叩いていた。湯気混じりのコーヒーの香りと、湿ったダンボールの匂いが肩をすり抜ける。机の上には昨夜徹夜で仕上げた小冊子が五冊、粗い糸で綴じられて、まだ乾ききらない接着剤の光を帯びていた。表紙には手書きのタイトル——「雨宿りの通信」。角は誠のインクだらけの指で押さえられていた。
雨音が糸を引くように編集室の窓を叩いていた。湯気混じりのコーヒーの香りと、湿ったダンボールの匂いが肩をすり抜ける。机の上には昨夜徹夜で仕上げた小冊子が五冊、粗い糸で綴じられて、まだ乾ききらない接着剤の光を帯びていた。表紙には手書きのタイトル——「雨宿りの通信」。角は誠のインクだらけの指で押さえられていた。
椿はそっと指先で表紙をなぞった。紙の繊維に沈む微かなへこみが、誰かの息遣いのように伝わる。共同で作った物だけに残るという痕跡。それは言葉にならない「いたずらな痕」であり、決して他人の本心を読み取る魔法ではなかった。けれど彼女はそれを頼りに、何度も自分と世界を確かめてきた。
「おはよう、寝たのか?」誠が肩越しに言った。顔には眠気の影と、昨夜の校正でついた紙の切り傷が二つ。彼の声はいつもより柔らかく、その柔らかさに椿の胸が微かに揺れる。
「うん。まだ固まってないところがあるみたい」椿は小冊子を差し出した。糸の縫い目に沿って指を当てると、そこで彼女の中に温度が走る。活字の間から、ふたりで笑った夜、誠がこぼしたコーヒーを拭った手の匂い、由紀が冗談で書いた短い一文——そうした時間の感触が、紙に圧されて残っていた。
能力はいつも曖昧で、曖昧だからこそ温かかった。だが条件があった。痕跡は共同で作り上げた物にしか現れない。しかも、痕跡を「これだ」と決めつけるほど、見えなくなる。急げば急ぐほど、共同作業の接合部が脆くなり、物も関係も裂けることがあった。代償は曖昧さを失うたびに自分の中の小さな記憶を一つ失うこと——昨日の椿はそれを知っていた。だから彼女はいつも、慎重に、そっと触れる。
「さっき社長から電話があった」由紀が声をひそめる。彼女の声は若干震えていて、机の上のラフスケッチを指で押さえていた。「上の評議会がうちのデータを精査するって。波評の算式が変わったらしい。うちみたいな小さな出版社は数値で弾かれやすいって……」
空気が静かに沈む。波評体系——外から見えない評点の網が、どの小社を生かすかを決める世の中の仕組みだ。編集室の壁に貼られたポストカードの余白が、まるでその網目に引っかかった蝶の翅のように見える。
「じゃあ、この冊子をどうするつもり?」誠の目が椿を見た。彼の眼差しは真剣で、そこに含まれる不安がかえって椿には優しく思えた。
椿は小冊子の縫い目を指で撫でたまま、ゆっくりと息を吐く。「これを、示すしかない。私たちがここにいるってことを——数値じゃない温度を見せる。波評には測れない、手触りを」
由紀が眉をひそめた。「でもデモとして出すには、監査の連中が数字を求めるよ。彼らは感触を信じない。データ化しないと——」
「だからこそだ」誠が言葉を切った。「彼らに見せるのは、ただの証拠じゃない。ここに残っているものをそのまま見せる。君のやり方で。——椿、君がやるんだろう?」
椿の手が少し震えた。誠は気づいてないふりをして、だが彼女の指先に自分の指を重ねた。温度が伝わる。共同制作が成立している証のように——その瞬間、紙の繊維に沈んでいた痕跡が、微かに揺れた。
「やる」椿は小さく頷いた。「ただし条件は守る。痕跡にラベリングはしない。示しても説明はしない。見る人自身が触れて、感じてもらう。代償は私が受ける」
その言葉に、編集室の空気が引き締まる。椿が能力を使うときは、必ず何かが奪われる。昨日は彼女は母親と交わした最後の言葉の一節をすり抜けさせてしまったばかりだ。自分が忘れたことが誰かを傷つけるかもしれない恐れを、彼女は胸の奥に押し込む。だが、「忘れないで」と願うよりも、「忘れてもいい」と自分をゆるすことが、今は必要だった。
由紀が冊子を慎重に棚に入れようとすると、電話のベルが鳴った。園田だ。彼の声は短く、怒りを抑えたような調子だった。「契約側から督促だ。あのデータ会社が社外監査を要求してきた。焦らないと、外堀は埋められる」
「時間がない」青木が吐き捨てるように言った。普段は社交的な青木が、掌を顎に当てて眺めている。彼は昔、波評を作る側にいたことがある。今、彼の顔にはその過去の影が見えた。
「ならば、今ここで示すしかない」と誠が再び言う。「市民図書館で小さな展示を開く。今日の午後、窓口で説明はせずに、手に取れる形で並べる。見に来る人が触れて、感じたことを紙に書いていく。数字に換算できない痕跡を、コミュニティが評価する形にするんだ」
その案に一瞬の静寂。やがて由紀が、眉間にしわを寄せながらも顔を上げる。「できる。印刷は間に合う。私は展示のレイアウトを変える。触れる導線を作る」
園田は笑った。「俺も搬入する。夜間の輸送なら足が出るが——それでもやる価値はある」
青木が黙って頷いた。彼の目の奥には決意が灯る。自らの過ちを洗い流すように、彼は動くことを選んだのだ。
椿は立ち上がり、誠と向かい合った。机の上で小冊子が細かく揺れる。雨粒が窓に落ちるたび、世界が小刻みに震えた。
「私がやる。でも、ひとつだけ約束してほしい」椿は指を誠の胸に当てる。紙の感触ではなく、肌の温度を確かめたかった。「痕跡を見せるために、誰かを壊さないで。急いで無理に説明しないで。偽りの数字で守ろうとしないで」
誠の唇がわずかに震えた。「君がそれをするなら、俺は——」言葉が途切れた。彼は何かを飲み込み、ぎこちなく笑った。「俺は朝の便に申し込んだんだ。編集者の合同企画だ。向こうの出版社から声がかかってる。もっと大きな舞台に出てみないかって」
その言葉は、編集室の空気を一瞬で凍らせた。椿は自分が誠の顔を見つめているのを感じた。彼の目には躊躇と期待が混じっている。これまで何度も二人で作ってきた紙の表面に、また新しい折り目が入るような予感がした。
胸がしめつけられる。だが彼女は能力にすがってはいけない。誠の「向こう」を紙から読み取ることはできない——ただ共同で作ったものに残る痕跡だけが語る。もし彼女が強引に意味を定めようとすれば、見えているものは消える。代償はまた別の何かを奪っていく。
椿はゆっくりと手を引いた。「行けばいい」その言葉は自分でも驚くほど穏やかに出た。「行って、見てきて。あなたの選択だから、私が止める権利はない」
誠の目が大きくなった。「でも——」
「止めるつもりはない。私はここで、私のやるべきことをする」椿は小冊子を抱き直した。「あなたがここに残るか、行くか。それはあなたの自由。私はあなたの進路を決めたりしない。でも、私たちが今作っているものは、あなたがどこにいてもここに残る。見て、触れて、感じてほしい」
誠は小さく笑った。目尻が湿っているのを椿は見逃さなかった。彼は冊子をそっと受け取り、指で縫い目を押さえた。「ありがとう。……行ってくる。試してみる。もし向こうで何か掴めたら、その話を直接しに来るよ。——ただ、俺のせいでここが潰れるようなことがあったら許してくれ」
椿はそれに答えず、窓の外の雨を見た。雨粒はやがて止むだろうか。止むとして、空にはどんな光が差すのだろう。自分をゆるすことは、他人を束縛しないことでもある。誠の手に残る道筋が曲がっているなら、それを無理に真っ直ぐにすることは、自分を許