小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す

小さな出版社で雨宿りの常連客は恋より先に自分を許す 第24話「第22章」

窓の外、細い雨が糸を引くように降っていた。ガラスに当たる音は規則的で、事務所の小さな騒音を洗い流す。段ボールの匂いとインク、湿った外套の匂いが混ざり合って、編集部の昼過ぎはいつもより濃密だった。

窓の外、細い雨が糸を引くように降っていた。ガラスに当たる音は規則的で、事務所の小さな騒音を洗い流す。段ボールの匂いとインク、湿った外套の匂いが混ざり合って、編集部の昼過ぎはいつもより濃密だった。

「こっちは五十箱目。名前のラベルは二段でいいよね」真琴が紙をめくりながら言った。指先には古い絵具の斑点が残っている。彼女と椿はさっきから刷毛を交代で持ち、手作りのスタンプを押していた。丸く彫られたゴム底には、風待ち書店と灯り屋のマークが並んでいる。

椿は、黙って箱の内側に指を這わせた。刷毛のざらつき、乾いたパッキンテープの粘り、端を揃えた紙の重なり。共同で何かを作るたびに、そこに残る「痕跡」を確かめるための所作は彼女にとって儀式のようなものだった。だが、それはいつも完全ではない。早く終わらせようと急ぐと、痕跡は綺麗さっぱり消えてしまう。決めつけて解釈しようとすれば、見えたものすら霞む。

「昨日のやつ、急ぎすぎて無になったよな」佐伯が噛み砕いたチョコの包装紙をテーブルに叩きつけながら言った。その日の夕方、彼らは売上のダメージを恐れてラベルの大量印刷を急いだ。結果として、誰とも心が交わらない箱が量産されただけだった。

「急がないで。今日は配る相手と直接作るんだ」椿は静かに言った。顔に出さないが、胸の中で何かを決めている。共同制作にこめる時間こそが、彼女の能力が働く条件だ。相手の本音を覗き込むような近道は存在しない。代わりに残るのは、共同で作り上げたものにだけ乗る痕跡。一方で代償は確実だった──鮮やかな記憶の欠片が、交換条件として消えていく。

「その代償、本当に受けているのか?」陽介が突っ込む。彼はまだ懐疑を捨てきれないでいる。自分の目で確認したいのだろう。

椿は、手元の封筒に指で小さな丸を押した。刷毛の跡がふわりと白く浮かぶ。言葉で説明するのは難しい。触覚だけでなく、その丸柄の周りに微かな温度の揺らぎがある──過去の会話の気配、共に笑った瞬間の残滓。誰かと手を動かして生まれたものは、形にならない「声」を宿すことがある。だがその「声」に名前を付けようとした瞬間、風化が始まる。

「記憶を失うって、どんな感じなの?」真琴が、小さな声で訊いた。作業中の音が一瞬止まり、針金で括られた箱が軋む音だけが残った。

椿は少し考え、そして肩をすくめた。「つねに空白があるわけじゃない。ある瞬間、部屋の角に置き忘れた写真の存在に気づくような感じ。そこにあったはずのものが、もう持てない。けれど、その代わりに人が選べる余地が増える。誰かの行動を縛らないために、自分の一部を手放すの」彼女の声は薄いが、揺るがなかった。

隣から、軽く咳が聞こえた。佐伯が渋い顔で、でも協力的な手つきで茶色の封筒を閉じる。流通網を断たれた昨日の打撃から、出版社は自前で配達ルートを作る計画を進めていた。風待ち書店、灯り屋、そしてカフェ・二階の棚。仲間たちの顔が、手渡される瞬間の笑顔のために動いている。

「梱包はこの順番で、片手にリスト──」陽介が指示を出し、椿は一つの箱を抱え上げた。外套の湿り気が体にまとわりつく。足音が木の床に微かに響く。三人四人で作業を続けるうちに、空気はどんどん親密になっていった。無理に感情を押さえ込む必要はない。共同制作の速度は、自然と落ち着いた。

灯り屋の店主・高田さんが到着し、手にコーヒーの紙カップを二つ、三つ差し出した。「お疲れさま。今日は直接持っていく予定の店もあるんだろう?」彼の目はやわらかく、箱を一つ取ると丁寧に内側を見た。そこにあるのは、椿と高田が一緒に押した小さな消しゴムはんこの跡。高田はふっと息を呑み、笑いをこぼした。

「この匂い、なんだろうな。懐かしいようで、でも説明できない」高田は手を離し、そのまま店の外へ持っていくつもりの箱を抱えた。彼が去った直後、真琴が目を丸くして言った。「ほら、来た。受け取り手が箱に触れた瞬間、顔が変わった」

その報告に、編集部の誰もが小さな満足を得た。だが、陽介が眉を寄せる。「これってさ、相手の同意なく使えるものなのか?相手に影響を与えるなら、説明義務が──」

「説明できないからこそ、尊重が必要なの」椿が割って入る。記憶の代償のことを隠すつもりはないが、公にするべきかどうかは別問題だ。相手が箱を受け取り、そこに残る痕跡をどう解するかは、相手自身の選択でなければならない。

そこで、佐伯が固い表情で封を切った。彼は先刻の失敗を反省しているように見えた。「今日からは配達先の店と一緒に包装する。箱の中には手紙を入れない。痕跡はあくまで物が運ぶものにとどめる。売上や評価の材料にするな」と短く言った。

方針が決まった。外に出す箱は、受け取る側の手とこちらの手が同時に触れることで初めて「声」を帯びる。遠方に送る場合は、届け先の店員が受け取る瞬間を仲介してもらう。流通の問題は、こうしていくつかの手作業で補える見込みが立った。

そのとき、事務所の電話が震えた。見慣れぬ番号だ。椿が取ると、向こうからは固い声が聞こえた。「こちら、県の流通業者です。先日の件、話し合いの場を持ちたい。明日の昼に代表がそちらを訪ねます。あなた方の箱を直接見せてもらえますか?」

会話が終わると、受話器から置かれる音が冷たく響いた。編集部の空気が一瞬凍る。

「これで流通が戻るかもしれないけど、向こうにとっては新聞と噂が材料だ。箱を見て、うちの方式を受け入れるとは限らない」真琴が低く言う。

椿は受話器を置き、テーブルに突っ伏すように一つの箱を抱えた。手の甲に、乾いたインクのリングがついている。胸のどこかにぽっかりと空いた場所があった。昨日の朝、母親の声の断片を失くしたことを思い出す。正確な言葉は思い出せないが、そこで感じた誰かの温かさだけは曖昧に残る。

「行く?」陽介の問いかけで現実が戻る。代表が訪ねてくる明日の昼。彼らは自分たちのやり方を説明し、箱を見せなければならない。箱は証拠だが、箱が伝えるものを言い切ることは不可能だ。言葉で縛れば、痕跡は消えてしまう。

椿はゆっくり首を振った。「行くよ。私が、直接渡す」彼女の声は小さいが、揺るぎなかった。代償は分かっている。共同で箱を作り、その結果として何かが相手の心を揺らせば、椿の記憶の一部はまた消えるだろう。でも彼女は、流通を戻すために誰かの自由を奪わせるよりも、自分が失くすほうを選んだのだ。

「一人で?」真琴は驚いたが、すぐに手元の帯を固く締めた。「私たちも行く。だけど、あなたが箱を渡す瞬間、そこにいるのは椿であってほしい。誰かの選択を守るために、ね」

その夜、事務所はいつもより遅くまで明かりが点いていた。新しい配送箱が静かに積まれている。箱の上に押された消しゴムはんこは小さく震えているようにも見えた。椿は一つの箱を抱えて、どこかに引っかかった感覚に手を当てた。名前の一部が遠くへ行ったように感じるが、それを追いかけるつもりはなかった。失うことを咎めないことで、他者に選択の余地を与える。彼女はその選択を、今日もまた自ら担う。

扉を開け、雨に濡れた路地へ一歩踏み出す。段ボールの重みが肩に食い込み、雨の冷たさが襟元を締める。明日の正午、代表が