通学船で進路が違うふたりは告白しないまま守る 第7話「第6章」
甲板の端、波のざわめきが鉄の柵を叩く音に溶けていく場所で、航也は人差し指の先に残る接着剤の冷たさを感じていた。潮の匂いが混じった風が、交流会用に飾られた帆布の旗をぱたぱたと揺らす。昼の喧騒は少しずつ収まり、ライトアップの準備が進む甲板に、緊張だけが増していた。
甲板の端、波のざわめきが鉄の柵を叩く音に溶けていく場所で、航也は人差し指の先に残る接着剤の冷たさを感じていた。潮の匂いが混じった風が、交流会用に飾られた帆布の旗をぱたぱたと揺らす。昼の喧騒は少しずつ収まり、ライトアップの準備が進む甲板に、緊張だけが増していた。
「あと一本だけ、糸を通せば完成だよ」
彩花は笑おうとして、笑いを止めた。彼女の手は航也と同じ小さな結びを作ろうと、微かに震えている。二人が作っているのは、交流会で飾るための『結び帯』だった。細い麻紐を彩りの布で包み、互いのページを折り込んだ小さな冊子を挟む。彼らの共同制作は単なる飾りではない。航也の力は、二人で物を作ったときだけ、その物に二人の気持ちの「痕跡」を残す。そうして残った痕跡は、彼が守るための手掛かりになってきた。
「航也、ちゃんと見てる?」彩花が訊く。瞳の中に甲板灯の反射が浮かぶ。航也はぎゅっと糸を引いた。
「見てる。……この結びが、全部を繋いでくれるはずだ」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。その声は風にかき消されかけたが、彩花は聞き取ったように息をのんだ。
背後で、晴斗がモニターを覗き込みながら低く呟いた。「スキャンが入った。運航室から直で来てる。さっきのスケジュール変更の影響だ」
「また?」里奈が肩を寄せる。彼女の声に、短い苛立ちと恐れが混ざる。運航室のスキャンは、交流会会場の展示物を一つひとつ解析している。学校と船会社が連携して設置した、その「関係メトリクス」を吐き出すシステムは、もはや誰もが知るところになっていた。だがその監視が、いまここで彼らの共同制作をどう扱うか――それはまだ、はっきりしていない。
航也は結び帯の表紙に指を滑らせた。表紙の端に、彩花が先に刺繍してくれた小さな花の模様がある。その刺繍に触れると、彼の中になにかが立ち上がるような感覚があった。これまではそれを頼りに、彼女の不安や迷いをそっと押さえたり、誤解から遠ざけたりしてきた。だが晴斗の一言が胸の奥に引っかかった。
「スキャンが入った」の意味は単純だった。外部の集計ポイントに接続された解析モジュールが、今この甲板上のあらゆる共同制作物を、デジタルデータとして吸い上げようとしている。彼らが残す「痕跡」も、そのまま外に流れるかもしれない。
航也は指を結び目に押し当て、力を込めた。いつも通りに感じられるはずの、彩花の不確かなぬくもりを探した。触れたものにだけ残る痕跡は、匂いや温度の層として、航也に情報を与える。彩花が近くにいる時間の長さ、ためらいの深さ、笑った瞬間の晴れやかさ――刹那のイメージが脳裏に流れ込む。
「彩花は……」航也の中で、ある像が結び始めた。彼女が進路について迷っていること、でも今は航也と一緒に居たいという小さな揺らぎ。彼はそれを確信に変えかける。確信は行動を呼ぶ。航也はこの場で、痕跡を強めて彼女を守ろうと決めた。
だが、決意が固まると同時に、何かが裂ける音が聞こえた。ほんの小さな撥ね返り、糸の一部が滑り、結び帯の冊子の端が引き裂かれた。紙の繊維が焦げるようにざらついた感触が指先に残る。
「だ、大丈夫?」彩花が顔を顰める。手元の冊子の角から、紙屑が舞い落ちた。
航也は咄嗟に手を伸ばしてその欠片を掬い上げた。胸の鼓動が耳の奥で炸裂し、彼女の痕跡にしがみつこうとする衝動が強くなる。彼が急いで痕跡を増幅すれば、保存の度合いは上がる。だがその代償を、理屈以上に体が知っていた。彼が痕跡を「決めつける」ほどに読み取ろうとすれば、残りの可能性が霞んでしまう。相手の声にならない選択肢が見えなくなるのだ。そして、関係を急げば共同制作そのものが壊れる。今まさに、それが起きた。
「航也、何してるの?」彩花の声は、遠い。
「ごめん、手が滑っただけ」彼は笑いながらごまかした。笑いは口をついて出ただけのものだった。内側の不安は消えない。スキャンの進行を示す晴斗の端末に、残り時間が点滅する。解析プロトコルが、彼らの共同制作に番号を振ろうとしている。
「これ、外に出たらどうなる?」里奈が訊く。視線は冊子の裂け目に注がれている。
晴斗は無言で首を振った。「外に出る前にスナップショットを取る。痕跡の『量子化』だ。どれだけ親密か、どのくらい接触があったか。それを数値化して評価に混ぜる。……僕らの場合、共同制作だから、痕跡が濃く出る可能性がある」
その言葉に、航也は冷たい波に襲われた。今まで彼は、痕跡をこっそり参照して彩花の動揺を抑えてきた。だが数値化されて外部に出れば、それは彼女の意思ではなく、この世界の評価素材になってしまう。痕跡が商品化されることが、守るという行為の対極にある。
「彩花の痕跡を守るつもりでやってきたのに、それが晒されてどうするんだ」航也は自分の声を掻き消すように囁く。
彩花がゆっくりと顔を上げた。灯りのせいで彼女の頬は柔らかく光る。怒りとも違う、強い決意が瞳に宿っているのを航也は見逃さなかった。
「航也、あなたが私の気持ちを守りたいっていうのは分かる。でも、それは私が選べなくなるような守り方?」彩花の声が震える。紙の裂けた端が小刻みに揺れ、海風にほんの少し吹かれただけで、そこから羽のように紙片が散りかねない。
航也は目を逸らした。砂が指の間からこぼれ落ちるような気持ちだった。彼の能力は便利で、彼にとっては頼りだった。だがその便利さが、彩花を閉じ込める鎖になりかねない、という恐れが生まれていた。
「じゃあ、どうしよう」晴斗が前に出る。彼の手には古い銀の板がある。技術班から拝借した反射シールドだ。「スキャンの直前だけでも、物理的に遮断できれば。外に出る痕跡を減らせるかもしれない」
「でも運航室のスナイプは赤外もマイクも持ってる」里奈が冷静に反論する。「遮断は賭けになる。しかも、不自然に隠すと逆に目立つ可能性がある」
議論は続く。航也はその場に座り込み、裂けた冊子をひとつひとつ埋めるように見つめた。胸の中の何かが引き裂かれそうだ。守るということは、相手の選択を奪わずに安全を作ることだと、どこかで誰かから教わった。でも今目の前の現実は、守るための行為そのものが相手を評価対象にしてしまう危険と向き合わせている。
「僕は……」航也が口を開く。言葉をどう選べばいいか分からないまま、出たのは最も素直な願いだった。「この結びを、彩花が自分で引き直せるようにしたい。外に出たら数字になる関係じゃなくて、彩花が自分で決められるものに」
彩花の顔がすっと緩んだ。だが彼女はすぐに視線を遠くへ泳がせる。彼女の肩越しに、甲板の向こうで運航室の窓が白く光った。監視の目は、もうすぐここに向く。
晴斗が端末を叩きながら提案する。「時間は短い。真正面からの遮断は無理かもしれない。だが、僕らのやり方が一つある。結び帯の中に入っている冊子を分解して、痕跡の層を幾つかに分ける。航也が一人で痕跡を担わずに、みんなで小分けにして保存するんだ」
「小分けに?」里奈の眉が上がる。
「痕跡は共同制作の度合いで濃くなる。だから、三つに分ければ、社外に流れた時に一つだけでは決定的な評価にならない。むしろ、ばらばらに散らばったデータは読み解きにく