古民家シェアハウスで秘密を共有する医学生は一緒に休むことを覚える

古民家シェアハウスで秘密を共有する医学生は一緒に休むことを覚える 第27話「第二部幕間」

縁側の戸が軋んだ。朝の光が欄間を抜け、床板の目に沿って細い線を描く。葵はふと立ち止まり、掌をその線の上に置いた。木の冷たさが指先からじんわりと体に染みて、昨夜の重さを思い出す。夢の断片のように、誰かの笑い声と湯気、魚を焼く匂いが交差した。だがそのどれも、確かめようとするとすり抜けてしまう──能力を使ったあとの、いつもの空白だ。

縁側の戸が軋んだ。朝の光が欄間を抜け、床板の目に沿って細い線を描く。葵はふと立ち止まり、掌をその線の上に置いた。木の冷たさが指先からじんわりと体に染みて、昨夜の重さを思い出す。夢の断片のように、誰かの笑い声と湯気、魚を焼く匂いが交差した。だがそのどれも、確かめようとするとすり抜けてしまう──能力を使ったあとの、いつもの空白だ。

台所では芽衣が大きな唐箕(とうみ)のような布袋を広げ、藍の染料を慎重に混ぜていた。悠は背中を丸め、薬瓶のラベルを読み返している。直は古い障子の桟を削り、瑞穂はメモ帳に何かを書いていた。大家の幸恵が持ってきた朝餉(あさげ)の匂いが、古民家の奥まで満ちる。

「葵、大丈夫?」芽衣が手を止めて訊く。芽衣の顔には昨夜の口論の痕跡がまだ残る。ふたりで作った茶碗のことをめぐって、言葉が尖ったままになっている。

葵は冷蔵庫から出した牛乳を軽く振ってから、曖昧に笑う。「うん。ちょっと……使いすぎたかも」

その言葉で皆の顔が一斉に向く。共同制作はルールで固める必要が出ていた。学内の噂、匿名の投稿、そして調査の噂──外圧は古民家の静けさを裂くように広がっている。昨夜、葵は夜の休息会で人々の穏やかな気配を借りて、茶碗の中に浮かぶ痕跡を見た。そこには「疲れ」と「期待」が混じっていたが、それを一方的に説明してしまったことで芽衣を傷つけた。しかも、その解釈は完全ではなかった。

「私はルールを提案したい」と瑞穂が切り出す。瑞穂の声は柔らかいが、言葉は確かだ。「能力を使う場面、その目的、読み取ったものの扱い。誰がどう決めるかを明確にしないと、ここにいる全員の尊厳が危ない」

直が首をかしげる。「でも、時間がない。学内の連絡は明日までに対応しろって。行政も動きそうだ」

悠がコーヒーカップの縁で親指を回しながら言う。「急ぐと、物が割れる。葵の言う『関係を急ぐほど共同制作が壊れる』って、実際に起きるよ。昨夜の茶碗、あれは……」

芽衣の目が瞬(まばた)きした。茶碗は案の定、微細なひびが入っていた。見た目には分からない程度だが、焼成の段階での応力が残っていて、欠けやすくなっている。二人で急いで作ったとき、土の締め方も釉薬の乗せ方も雑だった。共同制作は物理的な協調作業だ。急ぎは、物理的に壊れる。

葵は自分の指先を見つめる。能力の痕跡は、共同の時間と丁寧さに反応する。急ぎの制作では痕跡が薄くなるか歪む。だが、急がないことで噂に飲まれてしまう可能性もある。ここで選ぶべきは、時間と信頼のどちらかだ。

「じゃあ、どうすればいいの?」芽衣の声に疲れが混じる。「待てば誰かに潰される。使えば私たちの関係が壊れるかもしれない」

幸恵が布巾で手を拭きながら、小さく笑った。「選ばなきゃいけないのは能力の使いどころだけじゃない。使った後の代償も、どう負担するかを決めるべきよ」

葵は深く息を吸った。代償──それは単なる疲労ではなかった。昨夜、深夜の静寂で彼女は何かを探ろうとして、いつもの三倍近く能力を使ってしまった。結果、翌朝に二時間分の記憶が抜け落ちていた。最初は患者の名前を一つ思い出せなかっただけだったが、記憶の欠落は氷のように冷たい恐怖を残した。医学生としての信頼性にも関わる。だがその代償を誰かに隠すわけにもいかない。

「じゃあ、実験を兼ねて、ゆっくり作ろう」直が言う。「障子を直すように。共同で作る小さなものを。急がないで、時間をかけて。どれだけ痕跡が残るか、そして代償がどう出るか、データを取ろう」

瑞穂は眉を上げた。「データって言い方は冷たいけど、必要ね。だけど実験の対象は明確にする。何のために読むのか、誰のために残すのか。無関係な人を巻き込まない。破損や記憶喪失の補償も話し合う」

その午後、六畳の座敷に蒲団を一つ広げ、皆で木片を削る作業が始まった。葵と芽衣は二人で小さな匙を彫る。悠は紙縒(こより)を作り、直は墨で寸法を引く。瑞穂は地域のイベント用に小さな札を作っていた。作業は静かだ。木屑の匂いと指の擦れる音だけが空気を満たす。

葵の能力は、共同の物が「完成」した瞬間にだけ反応する。匙の柄に二人の指紋の擦れが重なり、切削の角が滑らかになったとき、彼女はふと視界に淡い残像を感じた。色は薄く、動きは緩慢で、芽衣の肩を撫でる軽い安堵と、自分の胸の緊張がゆっくりほどける感覚だった。だが同時に、遠い記憶の端が波打つように引きちぎられるのが分かった。頭の中にあったはずの地名が、音のように消える。

「今、何か見えた?」芽衣が訊く。指先はまだ削り跡に残る木の粉を払っている。

葵は首を振る。声がいつもより薄い。「少し。弱い。……でも、頭がぼんやりする。昨日の失敗の後だし、休ませたほうがいいかも」

その夜、葵は机に座り、昨日と今日の間に入った空白を確かめようとした。小さなノートを開いて、そこには芽衣が書き残した言葉や直のメモ、瑞穂のチェックリストが散らばっている。だがページの一部に、どうしてもはめられない隙間がある。そこには昨夜の会話の一節が欠けている。誰かの声が消えた場所に、白い穴がぽっかり開いているようだ。

悠が戸を開けて入ってきた。手には封筒がある。封筒の角はつぶれていて、見覚えのある学校の校章が押してある。皆の顔に緊張が走る。

「正式な問い合わせだってさ。匿名の投稿が発端で、学内の監査部門がこの場所の関係と生活状況について調査を始めるって」悠が封筒を掲げる。字は淡々としているが、文面の冷たさは鋭い。調査は善悪を問わず、事実を求める。だが事実の示し方は評価や噂に都合よく切り取られる恐れがある。

芽衣の手が震えた。芽衣は封筒を受け取り、稲妻のように決意を固める。「……協力するのは構わない。でも、私たちの尊厳を守る方法を私たちで決める。外に合わせるんじゃない。内側から答えを作る」

瑞穂がすっと立ち上がる。「そのためには、証拠として何を出すか決める権利が必要ね。私たちの作る物がどこまで説明力を持つか、葵の能力の限界を正直に伝えよう」

直は障子の桟を押し入れに戻しながら、黙って一度だけうなずいた。「だけど、時間はない。監査が来る前に、少なくとも一つ、明確に示せるものを作るべきだ」

沈黙が落ちる。その沈黙のなかで、葵は自分の内側に渦巻くものを感じた。力の代償が、誰かの選択に影を落とす。自分が出す「証拠」が誰かの人生を左右する可能性。忘却が誰かを守る盾にも、剥がれ落ちる刃にもなり得ることを、彼女は知っている。

芽衣は茶碗の破片をそっと取り出した。昨夜の、ひびの入った茶碗の一片だ。薄く光る断面には、焼き上がりの証明と雑な手順の痕跡が残る。芽衣はそれを葵に差し出す。

「これを持って行くのはどう?」芽衣の眼差しは固い。だがその中に、自分たちを守りたいという切実さがある。「監査に見せるのは、完成したものじゃなくて、過程の証拠。壊れたものがあるってことで、私たちが急がされた証拠になるかもしれない」

葵はその破片を受け取ると、爪先で端を撫でた。触れたところに一瞬、ふわりと芽衣の息遣いが残る感覚が走った。しかし、同時に胸の奥が冷えた。破片からは確かに何かが伝わるだろう。だが破壊は、痕跡を不完全にする。破片に残る