離島の診療所で離婚相談を受ける新人は故郷に帰る理由を探す

離島の診療所で離婚相談を受ける新人は故郷に帰る理由を探す 第7話「第6章」

潮の匂いが張り付いた朝。診療所の待合室はまだ薄暗く、蛍光灯のちらつきが壁に小さな影を投げている。蒼はカウンター越しに両手で布に包まれた小箱を抱えていた。指先に伝わるのは、乾いた木の温度と、夜露の染みた布の冷たさ。箱の中には、二人で作ったという小さなモビールが丁寧に納められている。漆喰の壁に貼られた診療所の掲示物が、窓の外の灰色の海と揺れていた。

潮の匂いが張り付いた朝。診療所の待合室はまだ薄暗く、蛍光灯のちらつきが壁に小さな影を投げている。蒼はカウンター越しに両手で布に包まれた小箱を抱えていた。指先に伝わるのは、乾いた木の温度と、夜露の染みた布の冷たさ。箱の中には、二人で作ったという小さなモビールが丁寧に納められている。漆喰の壁に貼られた診療所の掲示物が、窓の外の灰色の海と揺れていた。

「本当に、これを持ってきたんですね」佳穂が声を落として言う。白衣のポケットに装着した体温計がチリンと鳴るのが聞こえた。彼女の目は箱の蓋にある指紋と、蒼の顔を交互に見ている。

「ええ。相談の予約は午前十時からです」蒼の声は硬かった。モビールを差し出すと、理香子は両手を震わせながらそれを受け取った。夫の透は腕を組み、視線を落としたまま床に小石を蹴った。ふたりの体温が、空気の中でぶつかり合う。離婚の言葉はまだ出ていないが、その余白が重かった。

扉が勢いよく開き、市役所の係長だという男が二人の職員を従えて入ってきた。ネクタイは海色に近い紺、肩にかかる防水ジャケットには濡れた塩の跡。手に大きなバインダーを抱えている。近森係長――診療所側が前に名前を挙げていた人物だ。

「おはようございます。監査の追加で伺いました。共同制作物の保全状況を確認させてください」近森はあくまで事務的だが、瞳の端は素早く部屋をなぞっていた。蒼の手は、モビールの木の冷たさをぎゅっと掴み直す。

「その、今日は初診の相談があって…」中村院長が言葉を遮る。院長の声は低く、波のように穏やかながら胸に重みがある。「我々の作業は個人的なものです。持ち主の同意なく、持ち出されるべきではない」

近森はバインダーを開いた。紙の端がカサリと音を立てる。そこには、写真が数枚はさんであった。診療所に保存されていた共同制作物のデータ。蒼はその写真に、見覚えのある小さな陶器の置物や編み物、モビールの一部が写っているのを見つけた。写真には日付と、整理番号がタイプされている。

「保存は市の方でデジタル化している。公的記録の一部として、もし必要であれば我々が評価基準に照らして判断を下すことになります」近森の言葉は、波の底から冷たいものをすくい上げるようだった。

理香子が小箱の上で肩をすくめた。透がようやく顔を上げ、薄く笑って見せる。笑いは乾いていて、通り雨の後の空気のように、すぐに消えそうだった。

「このモビールは――二人で作ったんです。だから……」理香子の声が震え、言葉はそこで切れる。蒼は無言で頷き、箱の蓋を開けた。木片が風に揺れると、控えめな音がする。手触りは滑らかで、木目に小さな欠けがあるのが分かった。蒼はその欠けに自分の指をそっと当てた。

共同制作物には、二人が交わした痕跡が残る。蒼はそれを「読む」のではなく、触れることで流れる感覚を拾う。香り、動き、力の掛かり方、やり直しの跡。だが同時に彼にはルールがある。あくまで「二人が一緒に形づくったもの」にだけ反応すること。決めつけるように解釈を押し付ければ、視界は消える。急かせば、作業は壊れる。

蒼は深呼吸をし、能力を開く。視界の片隅に薄い色の帯が差し込む。色は二色、理香子側は燻(くす)んだ山吹、透側は翳(かげ)った藍。色は箱の中の木片に沿って、指先の熱と同じ速度で流れていく。ふたりが一緒に笑った夏の日――海風に向かって木を削った指先。透が理香子の手を取って「ここを削ってみろ」と言ったときの、ぎこちない優しさ。記憶の温度が、木の表面にうっすらと光る。

だが、蒼の胸を不意に突く感覚があった。近森の書類、写真データ、公共記録。もしこのモビールが市の評価材料になれば、ふたりの痕跡は第三者の手渡しする「証拠」になってしまう。蒼の頭の中で、二つの可能性が並列して立ち上がる。守るべきは、目の前のふたりの選択の自由。だが、守るために動けば、制度と対立し、診療所の存続が危うくなる。

「このモビールを今ここで再現してみてください。お二人で。ゆっくりでいいですから」蒼は提案した。声は平静を装っているが、手の震えを抑えるのに必死だった。共同制作を促すことは、彼の能力が最も正確に働く条件だ。二人が互いに触れ、互いの力の掛け方を確認する。そうして出てくる「痕跡」は、外部の人間の評価に先んじて、当事者が自分で受け止められるものになるはずだった。

理香子は戸惑ったが、頷いた。透も黙って箱から小さな丸い木片を取り出した。ふたりが同じ木片に同時に触れた瞬間、蒼の視界に色が伸びた。二つの色が互いの縁をなで合い、温度の概形が浮かぶ。やがて色は、一本の薄い線になってつながった。

だが、近森が書類をテーブルに叩きつけた。音は静かな診療所に不釣り合いに大きく響く。「進行を速めてほしい。我々はこれをデータとして整理しなければならない。時間がかかるのは好ましくない」彼は事務的だが言葉には冷たさが含まれている。診療所の外に控えた車のエンジン音が、それを追い立てる。

焦りが、理香子の手に波紋を作る。透の指先が早まった。二人はお互いの動作を追いかけ、呼吸が乱れ、一つ一つの作業が急ぎ足になる。モビールの釣り糸が思いがけず絡み、木片がぶつかって欠ける。小さな亀裂が走り、色の線は途切れた。蒼の視界も同じように裂ける。帯の色は薄くなり、やがて消えた。

「見えなくなった……」蒼は声にならない声を漏らした。決めつけるように「離婚しないで済む」とか「別れた方がいい」と断定する考えが胸をよぎった瞬間、能力は揺らいだ。決めつけた思いは遮蔽になって、痕跡は蒼の前から逃げた。

透が苛立ちをこめて木片を床に叩きつけた。木の端が小さく弾け、削り粉が靴先に散る。理香子が泣き声を上げた。近森は一歩も引かず、冷静に手を合わせる。「見えませんでしたか? 感情の痕跡は。資料として把握できるかなと期待したのですが」

「それは、急かせたからです。共同作業は、急ぎすぎると壊れます」佳穂が言った。彼女の声は震えていなかったが、目には訴えるような光があった。中村院長も腕を組んで、重々しく言う。「何より、本人たちのペースが大事だ」

近森は書類を閉じ、紙の端で鼻を拭うようにした。「市としては、客観的なデータが必要です。我々はそのための基準を整えています。もしこの診療所が協力しないなら、保存状況の報告書に反映されます。補助金の見直しも――」

言葉の先に、クリアな脅しがあった。診療所の資金が打ち切られれば、島の医療が脆くなる。蒼は瞬間、視界が暗くなり、心臓が喉に浮かぶのを感じた。能力の代償はいつも心理的なものだけではない。彼が働くことで生まれる結果は、他者の立場を左右し得る。制度という巨体が、小さな共同制作を秤にかけようとしている。

「我々はここで、個々の選択が踏みにじられるのを見たくありません」佳穂が続ける。だがその声には疲労も混じっていて、彼女の手がポケットの中で何かを握りしめているのが見えた。蒼はその小さな動作を一瞬見逃さなかった。佳穂は先刻、診療所のバックアップドライブのコピーを作ると言っていた。だがそれは規則違反だ。彼女の目は、「誰かが決める仕組みに抗いたい」という気迫で光っている。

理香子は震えながら木片を抱きしめた