離島の診療所で離婚相談を受ける新人は故郷に帰る理由を探す

離島の診療所で離婚相談を受ける新人は故郷に帰る理由を探す 第5話「第4章」

朝の光が診療所の縁側を薄く撫でているとき、蒼は棚の消毒液の匂いを嗅ぎながら、受付の古いラジオのダイヤルをひとつ回した。港からの風が戸口をくぐり、潮の匂いと一緒に湿った綿の匂いを運ぶ。診療所の扉が開く音で顔を上げると、村田靖子が肩を丸めて立っていた。顔は日焼けして硬く、手には封筒が入った紙袋をぎゅっと抱えている。

朝の光が診療所の縁側を薄く撫でているとき、蒼は棚の消毒液の匂いを嗅ぎながら、受付の古いラジオのダイヤルをひとつ回した。港からの風が戸口をくぐり、潮の匂いと一緒に湿った綿の匂いを運ぶ。診療所の扉が開く音で顔を上げると、村田靖子が肩を丸めて立っていた。顔は日焼けして硬く、手には封筒が入った紙袋をぎゅっと抱えている。

「おはよう、靖子さん。どうしました?」と蒼が声音を落とす。診察室のソファに通す。靖子は座ると、指先で紙袋の角をなぞった。

「離婚のことなんです……正式に相談できるところはここしかないって聞いて。役所は、あの、手続きだけでしょ? でも、ここなら……誰かに話せるかなって」

言葉が震える。蒼は相手の体温、髪の塩の匂い、指先の皮膚のざらつきを見て取った。診療所に来る人は病気だけでなく、壊れかけの暮らしも抱えている。蒼は深く息を吸い、できるだけ平静に応えた。

「話してください。今、何が一番困っていますか」

靖子は小さく唾を飲み、震える声で事情を並べる。相手はやはり夫の亮介。海で一緒に働いてきた相棒であり、最近は帰りが遅く、携帯には見知らぬ番号があることが多かった。村の若者たちがいつの間にか『亮介に女』という噂を回している。噂は灯台の明かりみたいに回り、靖子の家の灯りを消し始めた。

「でもね、私……亮介がいきなり出て行くとも思えないの。釣りの手伝いもしてくれるし。だけど、港の噂で、魚の配分が減るとか聞くと、村の目が怖くて。役所は独身世帯には補助を出さないって聞いた。私は子どものためにも生活を守りたい。どうしたらいいのか分からないんです」

蒼は靖子の言葉の隙間にある恐れを拾い取る。制度が、噂が、生活を縛る。これが敵だ。個人の悪意ではなく、選択肢を奪ってしまう仕組み。蒼の胸がひりついた。

「お話を聞くだけでもいいんですけど、もし良ければ——」と蒼は提案した。「亮介さんと一緒に、何かを作ってみませんか。二人で手を動かすこと。」

靖子は首を傾げる。「何を作るんですか?」

蒼は自分の能力を説明する必要はない。ただし、いつも通り言葉の使い方を選ぶ。能力は万能ではない。無理に本音を剥ぎ取れば、何も見えなくなる。それで人を傷つけることもある。だから、蒼はこう言った。

「共同で作ったものには、その二人の痕跡が残ることがあります。言葉より、手の動きがずっと正直なときがあるんです。急がず、丁寧にやれば、何かが見えるかもしれません。港の倉にある古いロープがあるでしょう? あれを直すのはどうですか。海仕事の道具なら、思い出も詰まっているでしょう」

靖子の目がわずかに潤んだ。外ではカモメの鳴き声が波のリズムに消え入った。

「やってみます。私、亮介を呼んできます」

二人は港へ向かった。陽は中天にあり、波が光を砕いている。漁船の木の匂い、潮の結晶が皮膚を刺すようだった。亮介は船の傍で黙ってロープを扱っていた。顔の線が深く、動きは無駄がない。靖子と亮介が並ぶ姿は長年の共同作業の積み重ねだと蒼にはわかった。

蒼は二人を静かに導いた。「まず、古い結び目をほどいて、端を揃えましょう。拍子を合わせて、代わる代わる編んでいきます。焦らないこと。話したくなったら、止めていい」

手にロープの塩気、藁の匂い。亮介の手は大きく、傷のあとが幾つもあった。靖子の手は小さく、しかし確かな力を持っている。蒼は隣に座り、そっと二人の手が同じ作業に入るのを見守った。最初はぎこちなく、二人の呼吸が合わない。だが十数分で、手の運びが同じ拍子を刻み始める。結び目を作る手つきが重なり、指先が何度か触れた。

蒼はその瞬間、呼吸を止めた。共同制作が始まると──彼女にはわずかな痕跡が見える。言葉ではない、波紋のような印影。二人の間に交わされた一回の笑い、無言で差し出した昼飯の半分、夜、灯を消さずに待ったことの匂い。だがそれと同時に、薄い裂け目も見える。亮介の瞳の中にある疲労、靖子の背にある遠慮、それらが互いに擦れ合っている。

蒼は手を伸ばし、編み上がった小さな撚り目に触れた。冷たく、潮の味がした。触れた瞬間、映像が来る。怒鳴り合う未来ではなく、ふたりが背を向けて海を見ている場面、亮介が懐から何かを取り出し、片手で靖子に見せる。小さな包み。そこには、亮介の妹への届け物が入っていた。妹のための薬と、子どもに必要な服。亮介は補助金の手続きで文書を行き違い、妹の世話を一時的に引き受けていたのだ。港の噂は、その一夜の不在と、配分帳の記入ミスから生まれていた。悪意ある者がかき回したわけではない。だが噂は、制度の隙間で膨らむのだ。

蒼はゆっくりと顔を上げた。「亮介さん、靖子さん、このロープは……あなたたちが一緒に直したものだから、二人の関係と役割が残っている。そこには、ふたりで守る習慣と、もう一つ――人が足りなくなったときに助け合う痕跡がある。あの夜は、亮介さんが妹さんを助けていた可能性が高い。単純な『女がいる』話とは、少し違うかもしれません」

亮介は黙ってロープを見つめた。顔の筋が緩むでもなく、靖子の目はじっと亮介を追う。やがて亮介が低く言った。

「俺が連絡をちゃんとしなかった。港の帳面も俺がやってる。間違いだった。村に説明するべきだった。すまない、靖子」

靖子の肩が震え、言葉にならない。二人の会話はぎこちなく、しかし確かな手応えを持って進む。蒼は立ち上がり、遠巻きにその場を見守った。小さな浄化だ。噂がきっかけで崩れかけた関係は、一つの共同作業で静かに現実に戻ることがある。制度に縛られた選択肢が少しだけ開く。

だがその瞬間、蒼の身体に冷たい波が押し寄せた。視界が一瞬揺れ、背後の波の音が遠のいた。胸の奥が締め付けられるように痛んだ。彼女は手元のロープにしがみつき、指先がしびれるのを感じた。共同制作から読み取った痕跡の代償が、身体に跳ね返ってきたのだ。

「蒼さん、顔色が……大丈夫か?」

靖子が声をかける。蒼はふらつきながら首を振った。頭の中の光景が溶ける。さっきまで確かにあったはずの、祖母が縫ってくれた浴衣の柄、子供の頃に植えた庭の梅の香り──それが、指先から砂粒のように崩れ落ちる感覚だった。読むたびに、彼女の中の何かが削られていく。

蒼は必死で立ち直ろうとした。「すみません、ちょっと、座ります」

座り込んだ板の上で、蒼は潮風を吸い込みながら、自分の喉に刺さるような空虚を確かめた。能力を使うたびに、小さな記憶が薄れていく。何度も使えば、自分がここに帰る理由そのものが消えてしまうかもしれない──彼女がずっと探している「故郷に帰る理由」が、代償として消えていく恐れ。

そこへ、船着き場の方から声がした。斎藤の怒声だ。漁協の組合長である。背中は丸くも、声には重さがある。斎藤はやって来ると、二人と蒼を見回して言った。

「何を悠長にしている。今月の配分の申請書は締め切りだ。独身世帯の取り扱いは厳格にせねばならぬ。村の基盤が揺らぐと、助成も下りん。手続きは先に進めるぞ」

斎藤の目は、制度を守ろうとする強固なものだった。彼の言葉に、亮介が俯いた。蒼は斎藤の厳しさに反発を覚えつつも、彼の言っていることが単なる冷酷さではないことも理解していた。