学生食堂で転校生と委員長は観客のいない舞台に立つ 第21話「第19章」
昼下がりの学生食堂は、いつになく手仕事のざわめきに占領されていた。長机に並んだ古い丸鋸の低い唸り、紙やすりに削られた木屑の粉っぽい匂い、温い出汁の湯気が窓から差し込む光を揺らす。相田陽斗は、手のひらに残る木のささくれを気にしながら、集中して小さな木片を削っていた。目の前には遠藤菜月──生徒会委員長。彼女の眉間には普段の凛とした隙はなく、肩の力が少し抜けている。
昼下がりの学生食堂は、いつになく手仕事のざわめきに占領されていた。長机に並んだ古い丸鋸の低い唸り、紙やすりに削られた木屑の粉っぽい匂い、温い出汁の湯気が窓から差し込む光を揺らす。相田陽斗は、手のひらに残る木のささくれを気にしながら、集中して小さな木片を削っていた。目の前には遠藤菜月──生徒会委員長。彼女の眉間には普段の凛とした隙はなく、肩の力が少し抜けている。
「はい、そっとね。力入れすぎないで」菜月が端正な動作で紙やすりを渡す。彼女の手先は変わらず器用で、木片は少しずつ平らになってゆく。参加者たち──古屋美咲、五島研、高坂理人らが周りを埋め、みんなそれぞれに刻む言葉や図形を相談し合っている。今日は「共同作業の儀式」の公開ワークショップ。参加者が思いを刻む小さなオブジェを作り、それを互いに交換する。観客のいない舞台を作るための試みは、ここから広がるはずだった。
「相田くん、ここに小さな溝をつけてみて」菜月が自分たちのオブジェを差し出す。陽斗は指先に力をこめ、ナイフの刃先で確かめるように線を引いた。彼がこの学校に来てからの特異を、彼以外は知らない。彼らが「共同で作った物だけに残る痕跡」を読むことができるという、限定的で不完全な能力だ。痕跡は言葉より曖昧で、二人の作業のリズムや呼吸の痕が浮かぶように見えることがある──ただし、その兆候を決めつけてしまえば、逆に何も見えなくなるという代償があった。
溝を撫でると、細い土色の線が指先に触れて小さく震えた。菜月の息づかいが少し速くなったのを、陽斗は感じ取る。ほんの一瞬、何かがくにゃりと繋がる気がした。だが同時に、覚悟のようなものが彼の胸に沈んだ。ここで確かめてしまえば、あらゆる可能性が「確定」へと変わってしまう。彼は思わず言葉を探した。
「菜月、君は――」
言葉を口にする前に、長机の端で携帯を構えた影が動いた。文化祭実行委員の佐伯が、にやりと笑って立ち上がる。彼の手には小型のステディカム。食堂の反対側では、昼休みを抜けてきた数人が好奇目を寄せている。顔の端に映るスマホの光は、すぐに波紋のように拡散する予感を帯びていた。
「これ、ちょっと撮らせてもらっていいかな。宣伝になるよ、学園公式アカウントに上げるから」佐伯の声は軽いが確信めいている。ここまで静かにやってきた試みが、瞬時に「観客のいる舞台」へと転化する危険性を孕んでいる。
菜月の顔が固まる。周囲の空気が一度に張り詰める。参加者の視線が交錯する中、陽斗は無意識に菜月の木片に触れる。先ほどの溝の感触が、ふたたび指に戻ってくる。だが今度は鮮明さがない。彼の脳裡にあった「確かにあったもの」が、にぶい白いフィルター越しに霞んでいく。胸がえぐられるような焦燥が襲った。
「相田くん?」菜月の声が驚きで震える。
陽斗は言葉を飲み込み、代わりに進めるように笑おうとしてしまった。その瞬間、彼は自分の中でなにかを決めつけてしまった。少しでも確かめるために言葉を挟んだのだ。成果を求める焦りが能力のルールを越え、見えなくなる──彼は後からその事実に苛まれることになる。
「ねえ、みんな、ここは撮らないで。私たちのやり方で進めたいの」菜月が真っ直ぐに佐伯を見据えた。彼女の手がわずかに震え、指の先に紙やすりの粉が付いているのが見えた。佐伯は肩をすくめ、カメラを下げるふりをしてから、ぎこちなく笑った。「宣伝は後でもいい。まずは練習をさせてくれよ」
その瞬間、陽斗はじわりと被った後悔の冷たさに気づいた。彼が「見えない」と感じたのは、ただの感覚のぶれではなかった。彼は自分で解釈を急ぎ、痕跡を確定してしまったため、以降の痕跡がぼやけていく代償を支払ったのだ。菜月の心の温度や作業の緩急が、彼の指先にあるはずの微かな凹凸として戻ってこない。彼はそれを取り戻そうとして、力を込めた。確かめたかった──そこにまだ隠れているほんの小さな躊躇や決意を。
「だめだ」陽斗の指に力が入り、ナイフが少し滑った。溝の端を引っ掻くようにして深くしてしまった。木がきしみ、細い線が突然パキッと鋭い音を立てる。空気が止まるような一瞬。全員の視線がその音に集まった。
「割れた」美咲の声が小さく落ちた。菜月は咄嗟に自分のオブジェを取り上げ、指先で断面を確かめた。断面からは生々しい木の香りが立ち上り、白い繊維の筋がはっきりと見えた。共同の作業を急いだり、どちらかが強引になったりすると、木片はすぐに壊れる。ワークショップの小さな掟を、音があざとく示した。
陽斗は手の震えを抑えきれなかった。能力の警告が、彼の中で鈍い痛みに変わっている。これまで何度も「痕跡を決めつけるほど見えなくなる」ことを避けてきたのに、今日は自分から踏み込んでしまった。菜月の顔を見ると、彼女は怒っているのでも、失望しているのでもなく、ただ静かに悲しさを抱えていた。
「相田、あなた、やっぱり──」菜月の言葉はそこで切れた。言葉を続ける代わりに彼女はぽんと陽斗の肩を叩き、低い声で言った。「手を洗ってきて」
その短い指示の温度が、装飾のない信頼のように陽斗の胸に残った。陽斗は食堂の端の水道に行き、手を洗う。冷たい水が指のささくれに沁み、木屑が流れ落ちる。彼の内側では、自分の無自覚な決めつけが関係に傷を残したという罪悪と、能力に翻弄された無力さが交互にうずくまっている。
水ひとすくいの間に、参加者の何人かが自主的に動いた。理人は壊れた木片の手直しを提案し、五島は別の木片を差し出した。美咲は俯いていたが、やがて小さな布を持ってきて断面を拭いた。彼らは誰にも頼まれず、それぞれの判断で動いた。共同体の選択が、小さな混乱を救った。
「いいよ、やり直そう」菜月が微笑みを取り戻す。笑顔はぎこちないが確かにそこにある。「観客のいない舞台は、簡単に壊れたりしないってみんなで決めたでしょう?」
その声に、空気が静かに戻った。陽斗は胸の奥に潜む焦燥を押し殺し、もう一度自分の席へ戻った。だが戻る途中、学年代表の山下が差し出した一枚の紙を手渡された。学園公式の連絡だという。参加者たちがざわめきながら紙片を覗きこむ。そこには、事務室からの通知が印刷されていた。
「…文化祭実行委員会から、学園広報部へ企画として『共同作業の儀式』を取り上げたいとの申請が出ています。公開放映の可否は次回委員会で決定します――」
紙面は淡々としているが、熱を持っていた。顔の端で、佐伯が得意げにうなずくのが見えた。観客のいない舞台を作るための行為が、外部へ持ち出されようとしている。陽斗はその一行を見て、胸が冷えるのを感じた。共同作業の意味が、媒介されることで消費されてしまうのではないか。彼はもう一度、菜月の顔を見た。彼女の瞳に、決断の影が揺れている。
「明日の委員会で正式に話が出る」菜月が静かに言った。「私が実行委員会に出席する。そこで、直接話す」
その言葉に、参加者たちの表情が変わる。誰もが自分の判断で動くことを求められる瞬間が来た。陽斗は、自分が能力によってどれほど脆くなれるかを痛感していた。だが同時に、これをやり直すべきだという意志も芽生えていた。彼は自分が犯した過ちの代償をどう支払うかを、ここで選ばなくてはなら