学生食堂で転校生と委員長は観客のいない舞台に立つ 第20話「第18章」
食堂の天井に吊るされた蛍光灯が、一つずつざわつくように暗くなる。午後の授業が終わった時間帯はいつも、ここにだけ時間が止まったような静けさが残る。油の匂い、トレーが擦れる音、皿の縁が当たる小さな金属音――それらが一列に並んで、今は観客がいない舞台を包んでいた。
食堂の天井に吊るされた蛍光灯が、一つずつざわつくように暗くなる。午後の授業が終わった時間帯はいつも、ここにだけ時間が止まったような静けさが残る。油の匂い、トレーが擦れる音、皿の縁が当たる小さな金属音――それらが一列に並んで、今は観客がいない舞台を包んでいた。
舞台に立つのは宮坂瑛斗と橘澪。瑛斗の手には半ば乾いた紙の板材、澪の左手には細いペンチ。二人の周りには、青と赤と緑の小さなスポットライトが床に投影されている。青の光には「非公開派」の顔ぶれ、赤には「制度を利用する派」、緑にはまだ決めかねている人々が分かれて立っていた。色が分かれるたびに、食堂の空気が固まる。
「ここまでよくやった、瑛斗。だけど……」澪がそっと紙板の角を押さえる。彼女の掌の温度が紙に伝わり、そこにわずかな凹みが残る。共同で形を作るときだけ、その痕跡が残る。二人の能力にはいつも、そんな静かな合図がある。
花井茜が青い光の列から一歩前に出て、机の上に何かを落とした。小さな端末の画面がパチッと光り、食堂の空気にデジタルの冷たさが混じる。佐伯透がその端末を拾う。透の顔はいつもより硬い。彼は、この数日で学校の内部ネットワークにうまく潜り込んで、いくつかの公文書を引き出してきた。
「見てくれ、これが昨日の理事会の通達だ」透が端末を回す。液晶の文字が明滅する。『感情評価プロジェクト――校内共同制作の可視化・評価化プログラム導入』。言葉だけでも冷たい。続く文章は、報酬と特権を示し、ランキング上位には図書館の優先利用、学内広告枠、推薦枠の付与があると明記されていた。
「つまり、『共同制作』を学校がスコア化して、公開の価値に変えるつもりだってことか」井上真樹が鼻を鳴らす。真樹は、生徒会でも立場のある男で、赤い光の列にいた。彼の表情には迷いが見えない。むしろ、そこに希望があるように見えた。
澪が目を伏せる。紙板の上に残る凹みを指先でなぞると、指先が微かに痺れた。瑛斗はそれを見て、胸がひりつくのを感じた。彼らの残す「痕跡」は、あくまで二人が共同で作った物に刻まれる。だが、それを制度がスコア化するということは、観客のいない舞台が観客のいる舞台に変わることを意味する。公開されれば、彼らの痕跡は消費される。商品になる。
「みんな、これはどう思う?」茜が尋ねる。青の列の表情は硬い。透は端末の画面をまたひとりに見せる。緑の列の端にいた小さな女の子が、ふと紙板を覗き込んだ。
「これ、読めるの?」その子は澪に訊く。彼女は首を振った。「読めない。痕跡は見える。でも、それを『こうだ』って決めつけると、ほら――」澪は自分の胸元に手を当てる。微かな吐息とともに、頭の中が薄い霧で満たされるような感覚が走った。脳の端にあったある種の確信が、すとんと引き抜かれるように消える。決めつける行為そのものが、視界を曇らせる。
「それって、実際に悪影響が出るのか?」真樹が挑むように訊く。
瑛斗は答えを出そうとして、言葉が口の中で溶けた。昨夜、彼は一度だけ痕跡をはっきりと読み取ろうとして失敗した。澪の笑いの意味を明確化した瞬間、目の前の手の震えが止まらなくなり、紙板がくっついていた接着が割れてしまった。手元に残ったのは破片と、あとから来る鈍い頭痛だった。共同制作は、関係を急ぐほど壊れる。二人のあいだに流れる微妙な均衡が、一つの決断で崩れてしまう。
「見ろよ、実験しよう」透が端末をぜひと差し出す。「俺が解析してやる。スコア化されたら、どれだけ世間の理解を得られるか見当がつく。ランキングの上位に入れば、瑛斗、澪、君たちの立場も守れるかもしれないだろう?」
真樹の眼が輝いた。赤い光の下で、彼は既に学校側の道具を手に入れることを考えている。だが茜は首を振り、青い光の方へ向き直る。「その『守る』っていうのは、本当に守るの?」茜は澪を見た。澪の指先が、また紙の凹みを触れる。さっきより深く押されたその凹みに、瑛斗は自分の指先を差し込んだ。冷たくて、ほんの少し湿っている。二人だけにしか分からない、透明な体温のようなものだった。
その瞬間、緑の列の端に立っていた佐伯が、端末の解析モードを切り替えた。解析は物理的な反応も拾うように設計されている。端末のLEDが薄く点滅し、スクロールが速くなる。画面には数値が出た。『共同度:0.83』『感情残留:弱-中』『推定絆タイプ:補助的結合』。解析の言葉は冷静で、無機質だった。
「出た。数字が来たぞ」透の声が震えた。だが画面に表示された数値に、誰も本当に安心はしていない。澪の眉が寄る。彼女は恐る恐る、その数値を指で撫でるように触れた。
「や、やめて、澪。止めろ」瑛斗が声を張った。だが言葉は遅かった。澪の指先がほんの一ミリだけ強く凹みに当たったとき、紙板が微かに裂け、二人の手のなかで小さな紙屑が舞った。端末の数値はぱたりと消えた。画面は青いノイズで満たされ、解析が止まる。澪の顔に血の気がのぼり、瞳が泳いだ。
「どういうことだ」真樹が訊く。透は自分の手元を見つめ、冷や汗をかいていた。「プログラムが――読めなくなった」
「決めつけたろ?」茜が淡々と言う。「数字に意味を付けようとした。その瞬間、痕跡が逃げたんだ」
澪の胸が震えた。言葉にならない震えだった。瑛斗はその震えを聞き取って、思わず澪を抱き寄せた。腕が肩口に触れたとき、二人の掌は紙板の両側でぴったり合った。凹みは、また少しだけ深くなる。心臓の音が、二人にははっきりと届いた。
「こうやって共同で作っているときだけ、俺たちの声が残る」瑛斗は低く呟く。それは説明ではなく、確認だった。だが同時に、彼の言葉には重い責任が宿っている。共同制作を公に晒すことは、痕跡をスコアにする余地を許すことだ。許せば観客が来る。観客が来れば、舞台は舞台ではなくなる。
「学校はもう動き出してる」佐伯がぼそりと言った。「感情評価端末を業者と一緒に設置する場所は決まってる。文化祭でのプレゼンと、学内広報での既定化。それと――」彼は一瞬言葉を切った。「理事長は、上位に入るグループに学費補助を示唆してる。影響力を持てると。だから、真樹の言う道は現実的だ」
場内に沈黙が落ちる。青の列は固まったまま。赤の列が小さくざわつく。緑の列から誰かが鼻をすする音が聞こえた。澪は頭を振って、冷たい空気を胸に吸い込む。唇を噛むと、鉄の味がした。
「私たちが何を守りたいのか、もう一度考えよう」茜が言った。「観客のいない舞台。それは単に見られないってだけじゃない。自分たちが関われて、他人の評価で切り売りされない居場所だった」
「でも、選ぶ人もいる」真樹が返す。「影響力を持てば、制度を変えることも不可能じゃない。内部からなら、評価の基準を変え、公開のあり方だって作り替えられる」
「それが、本当に『自分たちの舞台を守る』のかな?」茜の声は痛切だった。「影響力を得るために、誰かを犠牲にしてしまうんじゃない? 公の光の中で、痕跡はどう扱われるか分からない。商品にされるかもしれない」
そのとき、厨房の奥から低い放送音が流れた。学内放送の自動案内だ。『本日午後五時より、理事会からの特別説明会を食堂にて行います。感情評価プロジェクトについて