駅前の花屋で不器用な先輩後輩は卒業までに仲直りする 第14話「第一部幕間」
朝の風が、駅前の通りを薄く湿らせた。花屋の扉を押すと、木の床が小さくきしみ、冷えた空気に混じって土の匂いと花の香りが押し寄せる。塩見紬はカウンターの古いランプに手をかけ、重ねてあった紙包みを整えながら、無意識に寄せ鉢の端を指先で撫でた。鉢の土の表面には、前に二人で植え替えたときの指の跡がうっすら残っている。指紋というには力強く、でも言葉にはならない痕だった。
朝の風が、駅前の通りを薄く湿らせた。花屋の扉を押すと、木の床が小さくきしみ、冷えた空気に混じって土の匂いと花の香りが押し寄せる。塩見紬はカウンターの古いランプに手をかけ、重ねてあった紙包みを整えながら、無意識に寄せ鉢の端を指先で撫でた。鉢の土の表面には、前に二人で植え替えたときの指の跡がうっすら残っている。指紋というには力強く、でも言葉にはならない痕だった。
三好碧は、ガラスの棚に並んだ小さなカードを一枚取り、紙の縁をつまむとその裏をゆっくりと撫でた。いつもなら気に留めないような紙目に、微かな温度と色合いが返ってくる。淡い藍の滲みが、表には見えないけれど、確かにそこにある。碧は息を止めた。紬と一緒に作ったときだけ、こうして残る――そういうことを、二人はまだ言葉にしたくなかったのだが、カードは黙って彼女たちの手の内に反応した。
「今日、午前中に卒業企画の打ち合わせが来るって聞いたよ」と、店の裏で植木鉢の土をほぐしていた店主の中村が声をかける。声に混じって、剪定ばさみが金属同士でカチリと鳴る。紬は一瞬、手を止め、顔を上げた。外では駅に向かう人々の足音がリズムを刻む。碧はカードの藍色を指先でこすろうとしたが、力を入れすぎるのを自戒してやめた。
扉のベルが鳴り、制服姿の矢野理央が笑顔を携えて入ってきた。理央は生徒会の活動で学内PRを担当している。黒のブレザーのポケットには、学校のチラシと丁寧に畳まれたリストが見える。
「おはようございます、塩見先輩、三好さん。ちょっとお話を――」理央の声は明るいが、その目は真剣だった。彼女は学年の卒業行事について、駅前を飾るアイディアを練っている。学内だけでなく地域とのつながりをアピールするため、駅前の「花結い屋」を使わせてほしいという。
紬は紙包みをそっと胸の前に寄せてから考えるように頷いた。この店は、彼女にとってただのバイト先以上の場所だ。立ち上げから手伝ってきた中村の店で、客の顔を覚え、季節の色を学んだ。だが理央の言葉には、外の目が密集してくる予感があった。外の目は、彼女たちの仕事を評価という尺に押し込めてしまう。
「具体的には、卒業式で配るブーケを相談したいんです。数は百弱。学校の名前が入ったリボンを付ける形で、配布場所は改札前。写真撮影、SNSでの拡散も想定しています」理央はその場で資料を差し出した。紙面には列挙された数字と、提案のスケジュールが規則正しく並んでいた。
碧は資料に目をやり、カードの藍を見つめる。二人で手を動かしたときだけ残る痕跡は、今日のような「大量」とか「効率」を要求する場面でどうなるのか、まだ確かめていなかった。
「百となると、急ぎでしょ。うち、手が回るかな」中村がつぶやいた。彼の目は優しいが計算高い。店は街の中で小さな存在だ。大きな仕事は店の収入になるが、同時にリスクでもある。
「やりましょう。うちで作れば、絆のあるブーケになる」理央の笑顔は説得力があった。彼女は人の気持ちを盛り上げるのが上手く、期待を集める力がある。でも、碧は理央の笑顔の裏にある「数字」と「見栄」を知っていた。彼女は紬の肩にそっと手を置いた。
「先輩、どうしますか?」
紬は紙包みをぎゅっと握りしめた。掌に残る紙の繊維がざらついて、少しだけ安心する。彼女は気持ちを固めて、口を開いた。
「やる。ただし条件がある。ひとつ、胸を張れるやり方でやること。二つ、共同で作らないものには手を出さないこと。三つ……」紬は言葉を切った。無言のまま、二人は顔を合わせる。碧の目は真っ直ぐで、紬の心臓はそれに合わせて速くなる。
理央は頷き、資料を閉じた。「もちろん。質を優先にします。時間は調整しますから」
そのとき、店の奥の作業台で、刃物の音が鋭く響いた。注文を受けた小さなカフェ用のブーケを作っていた紬の手が、慣れた動きで茎を切った。だが同時に、店の端に置いた先週の寄せ鉢が、小さく崩れるように花びらを落とした。驚いて駆け寄ると、鉢の中心の一輪がしおれていた。土が湿っているのに、花は水を吸っているはずなのに萎える。碧が手を伸ばして触れると、茎の手触りがいつもより柔らかく、内側から冷たかった。
「どうして……?」碧の声が震える。
中村が眉間にしわを寄せる。「温度管理か……それとも病気か?」
紬は手元のブーケを置き、震える指で鉢を抱えた。思い当たる節が一つだけある。先週、卒業記念のためにふたりで夜を徹して小さな寄せ植えを作ったとき、碧がその中心に自分のリボンを結んだ。あのときに残った――淡い痕跡が、急に曖昧になったように見えた。紬の胸に、冷たい恐れが流れた。
「焦らないで」碧が言った。だがその声は、何かを決めつけようとする響きも含んでいた。「あのカードの藍色は、先輩のごめんって気持ちだよね。私、そう思う。いつまでも背中を向けてるのは嫌だって」
碧が言い切ったその言葉に、店の中の空気がぴんと張った。カードは隣の棚に置いてあり、二人で作ったブーケにさりげなく挟んであった。紬は急いでそれを取り出し、裏面に触れた。藍の滲みは、さっき見たときよりも薄く、角がぼやけていた。確信しようとした瞬間、紬の胸の中に何かが引き裂かれるような鈍い痛みが走った。
「違う。決めつけないで」紬はその言葉を、碧に向けるのではなく自分に向けた。だが声の震えは止まらなかった。「それが何か、私たちで確かめるべきなんだ。決めつけたら、見えなくなる。前にも――」
言いかけて、紬は口を閉ざす。言葉にした途端、どこかで見えなくなる。二人はそれを知っている。だからいままで曖昧にしてきたのだ。だが、理央の資料がテーブルにある。時間は迫っている。
「じゃあ、まず少量で試させてもらえる?」理央が割って入った。「校内配布の前に、十数個でイベント用のサンプルを作る。それで品質と見栄え、届け方を確認してから本発注に移すってどうですか?」
碧は小さく頷いた。紬も、心の中の揺れを押し戻して、静かに承諾した。小さな勝負にして、共同制作の質を守る。二人はその約束を小さく交わした。だがその直後、店の前に置かれていた箱に、誰かがぶつかったらしく、中に入っていた長い包帯のようなリボンが床に散らばった。包まれたラベルには「学校広告」と書かれている。理央のポケットから落ちたスマートフォンの画面に、学校の広報案のモックアップが映っていた。そこには卒業生の写真と「いいね」の数を表示できる欄が白く浮かんでいる。
その白い欄が、紬の胸の中に暗い影を落とした。紙面は無邪気に見えるが、そこには「人の気持ちを数に置き換える」設計が隠れていた。理央は気づかないふりをして笑ったが、碧の目は冷たくなる。
「選べる形でいいんだよね? 配布を受け取る側が、どう扱うか選べるようになってるんだよね?」
理央は一瞬言葉に詰まった。彼女の中で、PRという役割と、人の心を守る間合いの折り合いが揺れている。
「それは――担当に確認する」理央は答えを濁した。
紬は、テーブルの上の小さな藍の痕跡にそっと触れた。触覚として返ってくる温度はまだある。だがそれが保存されるためには、急がず、決めつけず、じっくりと共同で手を動かし続けるしかない。質を守ることにした