駅前の花屋で不器用な先輩後輩は卒業までに仲直りする 第15話「第13章」
朝の駅前は、まだ人波が薄く、花屋の窓ガラスに低い光が斜めに落ちていた。花咲堂の店内は石鹸のように甘い香りと、湿った土の匂いが混ざる。白河零は、濡れたハサミをカウンターに置き、指先の微かな切り傷に軟膏を押し当てた。包帯はいつの間にか咲の仕業で、赤い糸がかすかに透けている。彼はそれに気づかないふりをして、茎の断面を丁寧に斜めに切った。
朝の駅前は、まだ人波が薄く、花屋の窓ガラスに低い光が斜めに落ちていた。花咲堂の店内は石鹸のように甘い香りと、湿った土の匂いが混ざる。白河零は、濡れたハサミをカウンターに置き、指先の微かな切り傷に軟膏を押し当てた。包帯はいつの間にか咲の仕業で、赤い糸がかすかに透けている。彼はそれに気づかないふりをして、茎の断面を丁寧に斜めに切った。
「おはよう、先輩。今日、早いね」
鈴原咲は、いつものように扉を押して入ってきた。肩にかかったエプロンの端に、昨夜作った名札の余り布がついている。彼女は手に小さなチラシを持っていて、開けてみれば学校の「卒業式演出募集」の案内だった。角は折れ、受け取ったときの指の跡がついている。
零はチラシを受け取ると、文字を追う。卒業式の演出を地域店と共同で作る——学校側の担当者が、地域の“物語”を借りて式を華やかに見せたいらしい。咲の顔が、わくわくと紅潮していた。
「これ、参加したらどうかな? 花咲堂のブースで卒業生向けのブーケ作って、写真を撮ってもらえばいい話題になるよ。みんな喜ぶよ、先輩」
「話題、ね」零の声は平坦だった。ハサミを持つ手の力が少し入る。店の正面に飾ってある、先週の手作り市の写真が目に入る。写真の中の二人の手が、陽の光で金色に縁取られている。あのときの賑わいが、すぐに学校の話題作りへと繋がってしまったことを、零はまだ許せないでいた。
「先輩、どうして渋い顔するんだよ。あの時だって、みんな温かかったじゃない。地元の人たちが花に触れて笑って、店のことも褒めてくれた。そういうのって、いいことだよ」
咲はくるりと回って、棚からミニバラを一束取り出す。淡いピンクの花弁が、角度によって色を変えた。零はふと、彼女の手の動きの中に、昔のぎこちなさを見つけた。ふたりで作るということのぎこちなさ。彼はそのぎこちなさを守りたかったのだ──外側に切り売りされる形にされるのを。
「学校がそれを商品にしたら、終わりだ」零は低く言った。「僕らの作ってるものは、ただの飾りじゃない。『共同で作ったものにだけ』気持ちの痕跡が残るって、咲も知ってるだろう。簡単に万人向けのフォーマットにしていいはずがない」
咲の表情が少し曇った。彼女は胸の前でチラシを丸め、呼吸を整える。
「それって、どういう意味? 痕跡って言っても……先輩、また『読もうとして決めつけると見えなくなる』なんて、言うんでしょ。だけど、見えることだってあったじゃない。私たちで作ったブーケ、あの子たちが泣いてたよ。見えるなら、見せてくれればいいのに」
零の手が、茎を少し押しつぶすように握られる。花がきしんだ。彼は咲に視線を戻し、ゆっくりと首を振った。
「見せることはできる。でも見せ方に決まりがある。痕跡は共同の工程そのものに残る。誰か一人が『こういう意味だ』と決めて押し付けたり、作る過程を急いだりすると、痕跡は曖昧になったり、消えたりする。声を上げて勝手に解釈すれば、その瞬間に見えなくなる。壊れるんだ、作るものが」
咲は黙りこくって、指先でチラシの文字をなぞった。店の奥から弥生さんが湯飲みを二つ持って現れる。彼女は常に穏やかで、余計な波風は立てない人だ。弥生さんは二人の間に湯飲みを置くと、にっこり笑った。
「卒業式、いいじゃない。若い人たちが駅前を知るきっかけにもなるし、花屋として参加するのも地域貢献よ。だけど、無理に量産して品質が落ちたら、残念ね」
弥生さんの言葉はフォローだったが、零の態度は変わらない。彼はカウンターの引き出しから、小さな紙片を取り出した。紙片には、二人が最初に共同で作ったアレンジのスケッチが鉛筆で描かれている。角が擦れていた。
「これを、学校に持って行ってサンプルに使う。だけど条件がある。これを作るのは二人だけ。手順は最初から最後まで一緒にやること。誰かが切り花のとりまわしを指示して、僕らのやり方を均一化するようだったら、断る」
咲は、小さな笑顔を取り戻した。零が条件を出すと、安心するのはいつものことだ。けれど、その安心は長くは続かなかった。午前中のうちに、学校の副会長だという高田和也が店にやってきた。顔は真剣で、肩には公務用のバッグを提げている。
「白河先輩、鈴原さん、話は早いほうがいい。委員会で駅前の店舗に生花を使った演出をお願いすることになった。地域活性の一環だから、是非花咲堂さんの参加を。量は一つの案内にあるとおり、卒業生一人に一つのコサージュを配りたい。これ、資料です」
高田が差し出したファイルには、紙がぎっしり詰まっていた。枚数を見ると、数百単位の注文が予想される。零の顔の筋肉が固まる。咲の目は瞬時に明るくなったが、その光の奥に複雑な影が見える。
「一人に一つ、ですか。作る過程はどう考えているんですか? 同じ型を大量に流れ作業で作るのか、それとも一つずつ職人の手で作るのか――僕たちは、共同制作の『工程』にこだわりたいんです」
高田は資料をめくり、早口で答えた。「式の時間は限られている。学生の手元に配るには、ある程度の統一と効率が必要です。もちろん、花咲堂さんにはデザイン監修をお願いしたい。地域の顔として、ブランド化してほしいんですよ」
ブランド化、話題化、商品化——零の体内で糸が切れるような嫌悪が湧く。咲は口を挟む。
「でも、先輩。私たちだって同じ手順で作れば、共同の工程になるよ。みんなで手伝ってもらって、手順を守ればいい。地域のみんなの手が入るのも、共同ってことじゃない?」
その言葉に、零は固まった。共同の定義をめぐる衝突が起きる。咲の目は真剣だ。彼女は、共同性を拡張していけば、制度の圧力も柔らぐと信じている。零は、制度そのものに傷つけられた経験を恐れている。彼の胸にある一番深い恐れは、共同が「誰でも参加できる」ものになることで、もともとそこにあった痕跡が薄れることだった。
「やってみよう」零は、低い声で言った。「まずは一つだけ、僕たちだけで作って、痕跡を読み取る。学校にもそれを見せる。もし、ちゃんと残るなら、参加の仕方を考える。だけど、安易に数百作なんて手を出したくない。作る過程を切り売りされるのなら、僕は反対だ」
咲は頷き、ふたりは作業場に向かった。店の奥は、朝の光が棚に複雑な影を落とし、花びらの色がより深く見えた。二人は、黙って手を動かす。枝を折る角度、葉を取る順番、リボンを結ぶ時の指先の力。すべてを最初から一緒に、同時に行うことを試みる。小さな合図のように、咲が息を吐き、零が同じタイミングでハサミを動かす。互いのリズムを合わせると、作業は驚くほど滑らかだった。布の端が擦れる音、茎の断面が空気を切る音、二人の呼吸が重なる。
出来上がったのは、小さなブーケ──白と淡紅のミニバラ、紫蘭の葉、薄黄のカスミソウが集まったものだった。中央に、二人の指の押し跡が残るように折りたたんだ小さな紙が挟まれている。紙には、二人だけが知る言葉が鉛筆で書かれていた。零はそれを見て、胸がぎゅっとなる。
「触れるね」咲が言った。彼女の手がそっとブーケに乗り、二人の指先が同じ花の茎に触れた。零は、いつものように集中した。共同で作られたものに残る痕跡を読む。淡い光が目の奥