駅前の花屋で不器用な先輩後輩は卒業までに仲直りする

駅前の花屋で不器用な先輩後輩は卒業までに仲直りする 第13話「第12章」

朝の光が、駅前のアーケードのガラス屋根を透かして花びらを踊らせていた。雨の名残りで舗道はまだ湿り、靴底に吸盤のように張り付く。花屋「いろどり」の軒先に並んだ鉢植えたちは、つい先月までの立て看板と貼り紙の残滓をものともせず、静かに香りを放っている。その香りに鼻を寄せるように、黒瀬湊(くろせみなと)は両手を泥だらけにして、最後の苗を鉢に据え込んでいた。指先で土を撫でると、ぬくもりと冷たさが同時に跳ね返ってきた。

朝の光が、駅前のアーケードのガラス屋根を透かして花びらを踊らせていた。雨の名残りで舗道はまだ湿り、靴底に吸盤のように張り付く。花屋「いろどり」の軒先に並んだ鉢植えたちは、つい先月までの立て看板と貼り紙の残滓をものともせず、静かに香りを放っている。その香りに鼻を寄せるように、黒瀬湊(くろせみなと)は両手を泥だらけにして、最後の苗を鉢に据え込んでいた。指先で土を撫でると、ぬくもりと冷たさが同時に跳ね返ってきた。

「また来たのか、湊。」

声に弾んだ温度が乗る。振り向くと、佐渡一花(さどいちか)が傘を閉じ、紙の箱を抱えていた。スーツの肩はまだ湿り気を残している。彼女の視線は、花ではなく湊の奥のほうにある紙切れ——昨日、市役所から貼られた「立ち退き通知」を追っていた。

「今日で最後にするつもりだったけど……みんなが来るって聞いてさ。店を潰したくないんだ、おばあちゃんのために。」

湊はその言葉に小さく笑って見せる。笑顔に少しだけ震えが混じっていた。彼の掌には、彼らが何度もいままで共同で作った「何か」を確かめる習慣がまだ残っている。共同の物——束ねた小さなブーケ、花壇の一角に埋めた缶、どれもが二人の痕跡をほんのりと残していた。湊がそれを「読む」たびに、色の波紋や香りの残像が彼の中に浮かぶ。だがそのたびに、早まって意味を付けようとすると、その残像は消えてしまう。昨日、後輩の彩(あや)が焦ってしまって、花の色が梯子状に褪せていったことを二人は忘れてはいなかった。

「今日は、ただの展示じゃない。市民投票を取る。署名を集めて、補助金の審査に間に合わせるんだって。花屋を『地域資源』に認定してもらえれば、追い出されない。」一花が箱を下ろして、表に貼られた紙を指差す。そこには小さな字で、「地域活性化プロジェクトへの申請書類——締切、本日18時。」とあった。

湊は息を吐く。時計台の針が午前10時を指していた。時間はある。だが、湊の中にある焦燥は時間の長短とは別の質を持っていた。能力。彼がどうしてもやってしまう「先取り」の衝動。意味を決めつけようとすることで、共同制作が壊れる。今、彼はそれをどう扱うかで、一花との関係とこの店の運命を同時に賭けていた。

「おばあちゃんはな、昔から人に花を配るのが好きやった。悲しいことがあっても、ここに来れば誰かしら笑って帰っていった。私たちだけで守れる場所やない。だから、みんなの手を借りる。」一花の声は、決意と緊張の綱で結ばれていた。箱の蓋を開けると、彼女が抱えていたのは、小さな花束用の紙と輪ゴム、それに便箋が数枚。下には、クラスメイトや店の常連の名簿。湊の心臓が、紙の摩擦音に同期する。

「じゃあ、やろう。共同で作るんだ。勝手に意味を貼らないで、みんなでつくる。」

湊の言葉は自分に向けられた宣言のようだった。手を差し伸べると、一花はふっと肩を落としてそれを握った。彼らの手の間に、まだ乾かぬ土の香りと一昨日の雨の冷たさが混ざる。

午前中は、近所の人たちが続々とやって来た。病院の看護師、駅の切符売り場の男性、夜勤を終えたコンビニ店員、同級の三池や彩も顔を出した。それぞれが花を持ち寄り、メッセージをしたためる。誰かがギターを引き、短い合唱が湧き上がる。駅前の雑踏が、穏やかな集いの音楽に塗り替えられていった。

「これ、共同で作ったっていう証拠になりますか?」彩が小声で湊を促す。彼女の手には、昨日壊れかけたブーケの代わりになる小さな花があった。湊はそれを受け取り、掌の熱で花芯を優しく包んだ。共有物に触れると、いつものように色が波打つ。声や笑い、手の圧力や汗の塩気までが、花の微細な模様として湊の内側に浮かんでくる。誰がどの言葉を意図したか、どの手がどれほど躊躇したかまで。

湊は意識の端で、それを「決めつける」ことを欲した。もし意味を固定できれば、署名運動は効率よく進み、一花の不安も消える。だが脳がその形に寄せにかかると、目の前の花は確かに白斑を失っていく。色が階段状に褪せ、香りが薄れていく。昨日見たあの光景が蘇る。彩の目が一瞬、恐怖で揺れたのを思い出す。湊は手を引いた。

「俺が……今、やっちゃったら駄目だよね。」

声にならない願いを吐いて、湊は花束を差し出す。だがその代わりに、彼は何をするべきかを選んだ。自分で意味をホールドするのではなく、他者の選択を引き出すこと。彼は箱の中から一輪の未開花の蕾を取り出し、ゆっくりと人差し指で撫でた。軽い感触とともに、蕾の表面にほのかな銀の蒸気のようなものが浮かぶ。それは見える者には見えず、触れた人間の意志にのみ反応する。

「これを、誰かが最後に手渡してくれないか? 市役所へ行く代表に。強制じゃなくて、渡された人がその気持ちを抱いて持っていくんだ。」

一花は迷いなく頷き、周囲の人々を見渡した。「じゃあ、代表は……」と彼女は周りの顔をひとつひとつ見た。誰も押し付けられたくない。だが、誰もが自ら進み出ることも出来る。そこで、年配の常連、槙谷(まきや)さんがぽつりと言った。

「若いのんに任せるのは、違う。ここで育ったもんが行かんと。私、行くわ。」

槙谷さんの言葉に一瞬、空気が凍る。年長者の沈着な決断。彼はかつてこの地区で声を上げられなかった世代だったが、今日は違った。笑顔を浮かべて、ゆっくりと蕾を受け取る。手のひらに伝わる暖かさが、湊の中の色を濃くさせた。だが同時に、湊の胸の奥で、何かが清算される感覚があった。

「僕は……」湊が口を開く。「僕は、ここを守るために力を使う。けど、一花の人生を勝手に決めたりはしない。だから最後に、一つだけ、自分で払いたい代償がある。」

一花の目が大きく開かれる。周りの空気も、その言葉を梯子のようにして上を見上げる。

「俺が見ていたもの——共同で残される痕跡を、もう一度だけ、全部渡す。ここに残る皆の記憶の一部を、俺が読み取って、言葉にはしない。その代わり、俺はもう二度とそれを見ることができなくなる。見えなくなる。だから誰かの選択を奪うことは、これで終わりにする。」

その言葉は宣誓だった。湊は掌の蕾に自分の掌を重ねた。触れた瞬間、冷たい波が胸から指先へ走る。目の前の色彩がぐるりと回転し、音が遠ざかるような錯覚に襲われた。湊は呼吸を整え、息を吐き切ると、ゆっくりと目を開けた。何も見えなかった。色の輪郭も、過去の重なりも、一切が消えていた。代わりに風の音だけがくっきりと聞こえる。誰かの口笛、槙谷さんのしゃがれた笑い、遠くで鳴る踏切の警笛。現実は、ただ現実として在った。

「どうだ?」一花が訊く。彼女の声が震える。

湊は微笑んで見せる。「分からない。でも、なんか、怖くはない。」

手の感覚は残っている。土の湿り、蕾の柔らかさ。だがそこに余計な情報は流れ込まない。湊は初めて、自力だけで花を識ることになった。その重さが自由であることを、ゆっくりと理解し始める。

槙谷さんが蕾を受け取り、ゆっくりと立ち上がる。彼が表情を整え、代表として市役所に向かうと宣言した瞬間、駅前の人々の顔が決意で固まる。誰かが署名用紙を取り出し、別の誰かがそれを自分の名前で埋め始める。学年委員長の三池は、学校に提出する要望書をまとめると告