山間の美術室で交換日記の相手は秘密の料理を完成させる 第11話「第10章」
窓の向こうで、山の稜線へ落ちる雨が細い糸のように流れていた。美術室の古いガラスは波打ち、外の緑がゆらゆらと揺れている。油絵の具の匂いと湿った木の匂いが混じった室内で、宮野陽向は陶板の縁に手を寄せていた。指先が触れたのは、釉薬がまだわずかに温かい皿——自分と風間楓が一緒に作り上げた、秘密の料理用の器だ。
窓の向こうで、山の稜線へ落ちる雨が細い糸のように流れていた。美術室の古いガラスは波打ち、外の緑がゆらゆらと揺れている。油絵の具の匂いと湿った木の匂いが混じった室内で、宮野陽向は陶板の縁に手を寄せていた。指先が触れたのは、釉薬がまだわずかに温かい皿——自分と風間楓が一緒に作り上げた、秘密の料理用の器だ。
「どうするの、陽向?」伊東瑞希の声が低く震えた。瑞希はカップから紅茶の湯気をゆっくり立て、目をそらすように窓の外を見ていた。長谷川凪は机の端に背を預け、腕を組んでいる。小林透は鞄からスマホを取り出していたが、画面は見せなかった。
陽向は皿を両手で持ち上げ、表面のわずかな跡を眺めた。粘土を押し合った指紋と、楓が指先でこねた微かな溝。共同で作ったものには、いつも彼女の気配が残る。陽向はそれを読むことで、彼女の言葉を直接聞かずとも「どこへ向かおうとしているか」の断片を拾える──そう信じてここまでやってきた。
だが今日は、その力を使うたびに胸が締めつけられる予感があった。先日の文化祭準備での失敗、そしてその直後に交わされた瑞希と凪の言葉が、まだ新しい傷のように疼いている。陽向は意識的に息を整えた。
「触っていい?」楓の声は小さかった。彼女が指先でエプロンの端を弄りながら、窓の雨粒を数えている。皿は二人の共同制作物だ。陽向は一瞬ためらったが、膝の上に皿を乗せ、ゆっくりと楓の手を取った。二人の指が同じ場所に触れた。
いつもなら、感覚が索を引くように伸びる。楓の遠さ、迷い、どうしても誰かに伝えられない温度。だが今回は違った。最初に来たのは、言葉にできない圧力の味だった。外から差し込むネオンの匂い——生徒会、PTA、地域のメディア。誰かがこの皿を見て「物語」を買おうとしている。陽向の視界が歪み、皿に残る溝がまるで高速で走る列車の線路に見えた。
「陽向、こっちを見て」楓が囁く。彼女の声に彼は戻される。だがその瞬間、陽向は読み取った感情を「これだ」と決めつける言葉に縛り付けた。彼女が欲しいのは『守られること』ではなく『選べる余地』だと、自分の中で確定してしまった。
言葉に閉じ込めた途端、皿が手の中で震えた。釉薬が走るように細いひびが入り、音もなく割れが広がる。ひびの先で釉薬がすっと剥がれ、白い素地が露出した。
「駄目……!」楓の声が一瞬裏返る。二人は同時に皿を離し、ひびに沿って粉が零れ落ちた。白い細かな粉がテーブルに散る。瑞希が思わず口を押さえ、凪の目に冷たい光が宿った。透はスマホを落としそうになり、手でしっかり押さえた。
「陽向……また、それをやったのか」凪は低く言った。声は穏やかだが刃物のように鋭い。
陽向は掌に残る器の破片の冷たさを感じながら、言い訳が口をついて出た。「違うんだ。ゆっくり読もうとして──でも、確かめたくなってしまって……」
「確かめたくなるって、誰のため?」瑞希が静かに問う。彼女は眉間に小さな皺を寄せて、陽向の目をじっと見つめる。答えを探るような厳しさがあった。
陽向は俯いた。胸の中にあるのは、楓の答えを知りたいという欲求だった。噂や評価で消費される前に、ほんとうの望みを見分けたい。だがその欲求が、他人の選択の幅を狭めていたことを自覚するのは、ここにいる仲間たちの顔を見たときだった。
「陽向が『答え』を掴みたいのはわかるよ」瑞希が続ける。「でも、それで物を壊すなら意味がない。答えを決めつけることは、相手のこれからを剥ぎ取ることだってある」
凪は床に落ちた皿の破片を指で拾い上げ、細かな欠片をテーブルに並べた。「そして学校側は、それを商売にしてしまおうとしている。今日、生徒会から正式に話が来た。三条蓮が代表して来たんだ」
小林がようやく口を開いた。スマホの画面に表示されたメッセージが無意識に見えそうになったが、こらえてポケットへ戻した。「三条は『地域振興のために若者のストーリーを発信したい』って。楓、君の家庭の由来とか、誰と誰が好きだなんて話をつなげて、文化祭で特別ブースを作るんだってさ。取材と称して、私生活を聞き出す。要は、恋愛を見世物にするってことだ」
楓が肩を竦める。眼差しはどこか遠く、雷の前の静けさのようだった。彼女の喉元で小さな音が鳴った。陽向は胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。自分が彼女の答えをほしがっていることが、知らないところで誰かにとっての商品にされつつある。
「三条は悪意があるわけじゃない」と凪が言った。「彼は結果が欲しいだけ。数字になるもの、町の活性化になるものを」
「でも、個人の話を勝手に切り取って『いい話』にしてしまうのは違う」瑞希が頷く。「しかも、学校側は審査という名目で、出される作品の裏にある情報の開示を求めるらしい。個人の歴史や関係性を校外に出すかどうか、申請用紙にチェックを入れさせるんだって」
陽向の胃が冷たくなる。申請用紙。選択肢を形式化する書類。そこにチェックを入れさせることが、噂を評価に変換する仕組みだった。噂がスコアになり、スコアが進路や協賛の扱いを左右する。
「それって……」楓が言葉を探す。「私の祖母が教えてくれたレシピは、家族だけのもの。誰にも話してこなかったのに、外で見せ物にされたら意味がない。陽向、あなたはどう思う?」
陽向は胸の奥の小さな穴を見つめた。彼が欲していた答えが、楓の内側からすべて掬い取られるような恐怖を呼び起こしている。手に持っていたひび割れた皿の欠片が、冷たく彼の手の甲を刺した。
「僕は……僕は楓のために正しい選択をしたかったんだ」陽向の声は震えていた。「でも、それが彼女の選べる幅を奪っていたなら、僕はただ独りよがりの正義だった」
瑞希が立ち上がり、陽向の肩に手を置いた。「あなたが恐れていたのは、知らないことの空白。だからこそ、答えを埋めたかったんだよね。でも、埋めるのは君じゃない。楓自身が埋めるかどうかを決めるべきなんだ」
凪は黙っていたが、視線は鋭かった。「私は距離を取る。こういう扱いをされるのは耐えられない。自分が巻き込まれるのが苦痛なだけだ」。凪は椅子をきしませると、荷物をまとめ始めた。その動きは静かだが決然としていた。「手伝えないわけじゃない。ただ、巻き込まれ方を選びたい」
凪が出て行くのを見送る間、部屋の中は雨と釉薬の匂いだけが満ちていた。透は深く息を吐き、スマホを取り出した。画面には三条からのメッセージが表示されている。そこには簡潔な言葉が並んでいた——「話をさせてくれ」「文化祭での特集」「協賛者多数」
陽向はそれを見ないふりをしながら、楓の手を握った。指先にはまだ、陶土の微かなざらつきが残っている。幼い頃、楓が作った小さな茶碗を思い出す。祖母が笑って「これで何かを分かち合うのよ」と言ったこと。陽向は記憶の一片一片が溶けていく危うさを感じた。能力を無理に定義付けた時、過去の些細な部分が蒸発するように薄れていったことが何度もあった。昨日の楓の笑い、瑞希の小さな言葉、凪の沈黙——そうした細部が、陽向の手から滑り落ちていた。
「陽向、本当に読むなら、決めつけないで」楓が小さく言った。「そして、もし誰かにそれを使ってほしいって言うなら、それは私が選ぶ。あなたじゃない」