山間の美術室で交換日記の相手は秘密の料理を完成させる

山間の美術室で交換日記の相手は秘密の料理を完成させる 第10話「第9章」

光が、指先から逃げた。

光が、指先から逃げた。

乾いた粘土の縁に触れた瞬間、皿の色が吸い込まれるように薄れていく。釉の艶がスッと曖昧になり、指の腹に残っていた温度だけが現実を主張した。目の前で起こったことを説明する言葉が見つからない。音は遠く、風鈴が裏返しに鳴るようにきしんでいる。誰かがシャッターを切った——はずだった。だがそこには白いフラッシュだけが残り、色はもはやそこに戻らない。

「透、やめて」葵の声が、低く震えた。山間の美術室の空気は、まだ焼き物の焦げた匂いと、湿った木の匂いが混じっている。窓の外で小雨が跳ねる音がする。私、深澤透は皿を両手で抑えたまま、膝の力が抜けるのを感じていた。

「ごめん、葵……」謝る理由を探す。先ほど祭の会場で、私は約束を破った。急いで仕上げれば痕跡が残るだろうと願ってしまった。急がないこと、それが私たちの最低限のルールだったのに。手元を速めた途端に共同性が崩れ、皿は私の想定を拒んだ。目の前にあったはずの葵の笑い、夜に交わした言葉、風の入った時間の密度が、まるで溶け出した絵の具のように消えた。

教室の入口で、門脇奈央が背筋を伸ばして腕に抱えたクリアファイルを見せる。学生会の色の濃いロゴがそこにある。彼女は制度支持者の代表格だ。すでに複数の人が立ち去り、何人かは窓辺でスマホを高く掲げていた。撮影用のライトの輪郭が、フラッシュを待つ獣の目のように並んでいる。

「これ、記録に残します。学校の方針だから」門脇の声は機械的で、どこか遠くの講義室から流れるようだった。だがそこには確固たる善意がある。彼女たちは恋愛を評価の尺度で測ることが、世界を整理すると信じている。私たちが日々大事にしてきたものを「消費」してしまう仕組みだ。

「記録すると、何が起きるのか――」私の言葉は薄かった。自分の能力を言葉にするのは、いつだって怖かった。葵と私が共同で作ったものにしか、彼女たちの痕跡が残らない。だが「残る」ためには、二人それぞれの時間と意志が重なっていなければいけない。外からの評価や、第三者の注目が入ると、共同性は揺らぎ、痕跡は薄れる。さらに、私が一方的に「こうだ」と決めつければ、視界が閉ざされる。決めるほどに真実が見えなくなる——それが、この能力の厳しい縛りだ。

葵は皿を覗き込むと、言葉を選んでから口を開いた。「このまま、ここで記録されるのは嫌。私たちのつくったものが、評点のための資料になるなんて」

「でも、もし記録しないと、外にある力が退かない」門脇が手袋越しにファイルを差し出す。そこには公式の記録フォームと、評価タグが整然と並んでいた。制度はいつだって予定調和を好む。形式さえ押さえれば、何事も秩序に収まる——多くの人にとって、それが安心なのだ。

有村蛍が背後から小さくため息をついた。彼女は私たちの仲間で、昔から無鉄砲なところがある。蛍は自分の小皿を持ち上げると、ためらわずナイフで二つに壊した。陶器の断面が白くざらついて、粉が指先にくっつく。破片が飛び散る。蛍は平然としている。「これなら評価できないでしょ。消費されるくらいなら壊すよ」

その自主的な決断に、誰も抗えない。仲間が、自らの意思で自分の作品を壊す。それは保身でもなく、無力の放棄でもない。主体的な選択だった。制度に対して「いやだ」と言う意思の表明だ。私はその選択に胸をつかまれる思いがした。だが同時に、胸のどこかが冷たくなった。破壊は作ることの対極に見えて、まったく違う種類の暴力を孕んでいる。

「それじゃ意味がない」門脇の声に、誰かが舌打ちした。支持派と反対派の間に微妙な緊張が走る。高梨先生が割って入る。美術教師だが、生徒たちの評価と創作の間でいつも神経をすり減らしている。彼は両手を合わせて訴えるように言った。「聞いてくれ。写真を撮っても、全部が黒くなるわけじゃない。だが機材の設定が、色彩の再現を標準化してしまうことがある。それが痕跡にどう影響するかは、まだよくわかっていない」

「標準化?」私の心臓がまた一つ、ぎくりと鳴った。カメラの光で色が消える描写が頭に浮かぶ。祭の会場でのフラッシュ、あの瞬間。私は皿を速めに塗り重ねた。結果、共同していた時間は裂け、私は痕跡を失ったのだ。だが先生の言葉はさらに堅く続いた。「実は、過去に似た報告がある。公的な記録用機材が、表面の物理的特性に変化を与えてしまうケースだ」

その「実は」が、部屋全体を固める。門脇はすぐに反論する。「でも私たちがデータに残さなければ、学校の文化祭は外部の人に説明できない。透明性は必要です」

私は皿を見つめながら、手の震えを抑える。葵の手が私の腕に触れた。ぬくもりが伝わる。彼女は静かに言った。「透、あなた、今どう感じる? 無理しないで」

無理だ。と私は思う。能力を無理に働かせると、視界が白くなり、音が遠ざかる。前に一度、私は他人の本音を「こうだ」と決めつけてしまった。その時、周囲の色が次々に消え、誰が何を言っているのかさえ分からなくなった。痛みはなかった。むしろ欠落があった。自分の判断を盾にして相手を括り付けたとき、世界が減る。そういうやり方はもうできない。できれば、二度と。

「俺は、もう読めないかもしれない」私は声を出してしまう。真実を明かすのが怖かった。葵の視線が私を捕らえた。彼女の目には怒りでも悲しみでもなく、淡い決意があった。「それでもいいよ。私たちは、痕跡が消えたことを悲しむだけじゃなくて、作り直す方法を探す」

作り直す——その言葉にはいくつもの意味が含まれている。時間、手間、そしてなにより「共同性」の再構築だ。共同とは、一方が押し付けても成り立たない。互いに居合わせて、互いに受け入れる。葵は唇を噛んでから、小さく笑った。「蛍が壊しちゃったのはショックだけど、私、あの瞬間わかった。私たちは他人の視線に怯えて作っていた。ちゃんと自分たちの時間に戻したい」

その時、入口の方でスマホの画面が光った。誰かが祭の外にいるメンバーにライブ配信を始めたらしい。画面の中で、私たちの無秩序な手元が切り取られ、どこかへ送信される。つまり評価以前に「消費」が始まってしまう。散らばる視線は、作品そのものを判断の材料に変えていく。私はその光景に吐き気を覚えた。

「もし、外が見ているなら、私たちのやり方はもう無効かもしれない」門脇が言う。彼女は手を差し出して皿に近づいたが、先生が制した。「待て。まず確認しよう」高梨は急いで小型の光測定器を取り出した。教員用の備品だ。小さなランプが皿の表面を撫でる。表示が揺れる。彼は眉間に皺を寄せながら、「この設定だと、表面の化学反応を引き起こすかもしれない。つまり、光の強さで釉薬の電子状態が変わり、色彩が変化する可能性がある」と説明した。

それは新事実だった。写真という行為が、物理的に痕跡へ干渉している。私の心臓がまた一度、強く打った。能力の説明は精神的なものに留まらない——物理と記憶が絡み合っている。写真の光は単に像を取るだけでなく、私たちが残そうとした痕跡そのものを変質させる。これが、先ほどの失敗の科学的側面だとしたら——私は、もっと複雑な戦いを強いられる。

「要するに、向こうが写真を撮るなら、私たちの共同は一瞬で消えるってこ