灯火斧の観測員と夢見兵団 第17話「第15章」
線香のように細い電線が、地下室の天井を這っていた。裸電球は一つだけ、黄色い光をぼんやりと落とす。電球の周りには埃が舞い、吸い込むと粉っぽい味が舌の端に残る。イリは手元の小さな受信器を握りしめ、針の震えを見つめた。受信器の向こう側で、ミカの声が低く、しかし確かなリズムで伝言をつないでいる。
線香のように細い電線が、地下室の天井を這っていた。裸電球は一つだけ、黄色い光をぼんやりと落とす。電球の周りには埃が舞い、吸い込むと粉っぽい味が舌の端に残る。イリは手元の小さな受信器を握りしめ、針の震えを見つめた。受信器の向こう側で、ミカの声が低く、しかし確かなリズムで伝言をつないでいる。
「──三班は予定通り南門を二回迂回。午後八時の投票で経路を決める。紙と鉛筆で、現場で手を上げる。口頭の承認だけは信じない。分かった?」
受信器から離れたトオルの声がぽつりと返る。紙と鉛筆。イリの目は自然と、隅に立てかけられた灯火斧へ移る。斧の頭からは暗い光が滲んで、まるで小さな灯火が刃先に宿っているようだった。普段は布に包んでおくが、今日はあえてむき出しにしてある。誰が見ても一対一で出す合図として使えるように。
「誰かが模倣してる、って連絡が来たの?」イリは短く訊いた。受信器の端で、ミカが息を吸ったのがわかる。
「来てる。夜半に—子どもたちの夢を使って、親の声をなぞるんだ。映像じゃない、記憶の引用。『お前は選べない』って言わせる。だから物理的な署名が必要って決めたの、イリ。投票で選んだことを身体で確認する。手を合わせるとか、紙に触らせるとか」
言葉の「触らせる」が終わると同時に、壁向こうの小さな窓から紙が滑り込むような音がした。誰かが回覧板を渡したのだ。外套に包んだ中年の女性、サヤが顔を覗かせ、息を整えてから紙を手渡した。紙端は短く焦げている。模様のように写った落書き――子どもの絵だ。丸い顔、手の描き方がぎこちない。下に、鉛筆の走り書きで「おねがい どうか」という文字。だが紙の隅に、別の文字が薄く重なっていた。墨のような濃さで、「同意する」と三文字、誰かの筆跡がなぞってある。
イリはその文字に指先で触れた。紙の感触は焦げた角が少し硬く、指先に炭の粉が付いた。受信器の向こうでまたミカの声。
「こういうのを送ってくる。夢の中で署名の記憶まで作る。だから本当に意思を返すために、作業は物理的に行うって取り決めた。だけど——」声が詰まる。「だけど、南の路線で迷いが出てる。模倣夢が『あなたはいつも従ってきた』って言わせる。人は自分の過去を信用する。過去を偽られると、目の前の紙すら疑いだす」
サヤが静かに鼻先を拭った。イリはその音を聞き、脳の奥の方で小さな不吉な振動を感じた。灯火斧が想像より重く、席の下で冷たい金属の掌を触られているような気配がする。斧は、いつでも「共有を現実にする」ための道具だった。合意した計画は、その柄に触れた者たちの心を媒介にして、一度だけ具現化する。だがイリは知っていた。合意が無いまま独断で斧を振れば、感覚の何かを失う代償が必ず来る。――嗅覚は一度切り取られたようになり、聴覚は遠い窓に閉じ込められた楽器の音のように曇る。しかも合意なしで使うと、効果は味方だけでなく敵にも及ぶ。敵対する側にその計画の一部が作用し、結果として泥試合のような混乱が生まれる。
「使うのか?」トオルの問いに、イリは答えられなかった。目の前の紙がくしゃりと音を立て、誰かの小指が紙を回していく。鉛筆の走りが薄く震え、また別の文字が浮かび上がる。「しんじる」と子どもの文字。それ自体が本物なのか、夢が作ったものなのか。夜風が窓の隙間をくぐり、紙の匂いを運んだ。焦げた紙の匂いに、ほのかな味噌の香りが混ざり、それはサヤがさっき煮込んでいた鍋の残滓だった。嗅覚はまだあった。だがイリは、使えば――と短い恐怖が胸をよぎる。
ミカが受信器越しに笑いを含んだ声を出す。
「イリ、今回だけは斧に頼らないでほしい。私がやる。情報の枝葉を切り分けて、本物の合意を引き出す。模倣夢は記憶を盗むけど、手触りは盗めない。紙を手渡した時の手のぬくもり、鉛筆の跡のかすれ、それを現場で確認する方法なら、夢は再現できない。私がその『確認』を拡散する」
ミカの意志ははっきりしていた。イリは少し驚いた。ミカはこれまで斧に頼ることも多かった。だが今は違う。彼女の指先の震えが、受信器の切れ目に波紋を作る。ミカの提案はリスクを分散する道だった。だが同時に、「急ぐ権利」を求める声が別の場所で芽吹いている。若い男が、地下室の暗がりからのどを鳴らす。
「待てない。子どもたちが泣いてる。夢はもう彼らを縛ってるんだ。斧で一度、全部覆してしまえば」男の声は熱を帯びていた。「合意を後付けでもいい。先に安全を取り戻すんだ」
その言葉は、無言の数を呼び込んだ。合意を作る時間と、今すぐに手を打つ時間。二つの時間が交差した。イリの手は自然に、斧の柄に触れた。冷たい木肌の質感。刃先の灯は脈打っている。触れた瞬間、頭の中に小さな裂け目が走るような感覚が来た。幻聴の一片、誰かの笑い声が遠くでこぼれ、すぐに消える。灯火斧は、合意の熱さを探るように震えた。
「一度だけだ。誰かの了承がないと、俺が受ける代償は大きい」イリは低く言った。言葉は自分でも驚くほど冷静だった。だが気持ちはぐらついている。斧を一振りして、全てを終わらせられるかもしれない。同時に、多くを失う。嗅覚なのか、聴覚なのか、あるいはもっと根本的な「観測する力」そのものを欠くのかもしれない。
誰かが笑った。だがその笑い声はミカのものとも、模倣夢のものとも聞こえた。受信器が地味に鳴って、端末に震えが生じる。ミカからの短いデータ流だ。添付されていた音声は、ミカが現地で録った「確認の歌」だった。歌詞は単純だ。紙に触れ、鉛筆に触れ、三回目で手を上げろというリズム。ミカは何週間もかけて、そういう「現場ルール」を織り込んだ短いメロディを作っていた。模倣夢は記憶を盗むが、同じリズムを身体に刻むのは容易ではない。身体のリズムは、夢より遅れて動くからだ。
イリは斧の柄を握り直し、短く息を吐いた。そのとき、受信器の中の静寂が割れた。別ルートからの通信――隠し回線だ。知らない声が、かすれた警告を送ってきた。「時計塔の裏、送信器の列に反射板を立てた。あれが模倣夢の起点だ」声は男性のものだった。粗野で、しかし確かな座標を告げる。イリはその言葉に反射的に顔を上げた。時計塔は街の真ん中にあり、だれもが見ている存在だ。そこを押さえられれば、夢の送信は不安定になる。だがそこを奪うには力がいる。何より、その情報が本物かどうかを確かめる必要がある。
「誰だ?」イリは言った。隠し回線は即座に切れた。鳴った衝撃が、なお胸に残る。灯火斧の灯が鋭く点滅した。合図だ。斧は何かを示すように光を跳ね返し、柄の木目が指の腹に小さな熱を伝えた。合意のある計画だけを現実にするはずの道具が、今、イリに「行け」と言っているようにも思えた。
だがイリは知っていた。合意は成立していない。ミカは非暴力の線を選んだ。サヤは子どもを守ることを最優先にした。トオルは票の集計の準備をしている。その瞬間、地下室の重い空気が裂けるように、誰かが決断した。
「私が行く」ミカの声が低く、確定していた。受信器の中で彼女は息を整える。「斧は誰にも渡さない。私たちの合意は、紙と手と声になる。イリ、あなたは斧をここに置いて。私が現場で『確認の歌』を歌う。子どもと親の間の手を繋ぐ。もし模倣が来ても、手