万華鏡砲の補給士と箱舟財団

万華鏡砲の補給士と箱舟財団 第22話「第20章」

雨上がりの朝靄が、キャンプのタープを白く溶かしていた。濡れたロープの匂い、炭火の焦げた匂いが混ざり合い、泥に踏まれた靴底がきしむ。蔦井紬は万華鏡砲の側に立ち、指先で冷たい鏡面をなぞった。砲身に嵌められた小さな多面鏡が、薄曇りの光を受けて細かく瞬いた。その表面には、いつもと同じはずの自分の顔が映っているはずだが、今朝はどこか他人のように思えた。

雨上がりの朝靄が、キャンプのタープを白く溶かしていた。濡れたロープの匂い、炭火の焦げた匂いが混ざり合い、泥に踏まれた靴底がきしむ。蔦井紬は万華鏡砲の側に立ち、指先で冷たい鏡面をなぞった。砲身に嵌められた小さな多面鏡が、薄曇りの光を受けて細かく瞬いた。その表面には、いつもと同じはずの自分の顔が映っているはずだが、今朝はどこか他人のように思えた。

「今日は向こう側が本気で来るかもしれない」

匠が、薄手の防寒着をきつく抱え込みながら言った。彼の手は油で黒く、道具箱のふたに貼られた古いテープが一部剥がれていた。マヤはすぐ横で消毒綿をいじりながら、眉を寄せる。

「黒川司が連れてきたパトロール、数が増えてる。『保護』の名目で人員を配置して、設備の管理権まで取りに来る。今度はポンプもリストに入ってるって」

紬は黙って頷いた。水。ポンプを取られれば、子どもたちの行列がもっと長くなる。口論が生まれる。人々は恐れから、簡単に手放すことを選ぶ。

美津子が遠くから近づいてきた。彼女は数日前、箱舟財団の「保護」に同意して互いに識別バンドを受け取った一人だ。紬は覚えている。夜中に鍋の湯を温めていた美津子が、震える手でバンドを受け取り、ぼそりと「もうこれで子どもを守れる」と言ったことを。あの言葉が耳に刺さっていた。

「お茶、いるかい?」紬は湯気の立つ缶を差し出した。美津子は一瞬躊躇してから、ゆっくりと缶を受け取る。手のひらが震えていた。

「ありがとう、紬さん。前は──私、間違ってたかもしれない」

美津子の声は小さかった。キャンプの端では、箱舟財団のパトロールが巡回している。制服の黒い縁取りに、安心を約束するような厳格さがあった。紬は缶の温度を掌に伝えながら、足元の泥を踏みしめる。

「間違いなんて、ないよ。選んだ人を責めるのは簡単だけど、彼らは怖かった。守りたいものがあるんだ」紬は手際よく茶碗を回し、顔をあげた。「でも、守り方は一つじゃない。私たちにも選び方があるって、示したい」

そのとき、遠くのポンプ小屋の方で怒鳴り声が上がった。箱舟側の男が、協力を拒む高齢者に声を荒らげている。言葉は聞き取れないが、強制の空気は伝わる。匠が顔を上げ、脇の工具箱を蹴った。

「逃げる時間はない。あそこを守らないと、水が止められる」

紬は立ち上がり、万華鏡砲の縁にある革のグリップを握った。砲はただの装置ではない。前世で紬が扱った物資配給の理路と同じぐらい、合意と配分の理屈で動いた。だが万華鏡砲は「合意」を物理的に結晶化して一度だけ実現する装置だ。誰かの意思だけで動かせば、代償が来る。仲間の同意を無視すれば、その作用は敵にも及ぶ──本来は安易に触れてはいけない一線だ。

「紬、ここで感情まかせにやるな。前に使っただろ、あれで──」マヤの言葉は止まった。紬は思い出す。前に一度、彼女たちは砲に手を当てて小さな作戦を実現した。皆の合意があったからできた。それが正しかったのか、間違いだったのかは、答えがまだ出ていない。

ポンプ小屋の前に集まっていたのは、年配の男と、その背後にいる数人の若者だ。箱舟財団の係員が腕を伸ばし、バンドを見せながら「ここはもう保護区域だ」と掲示する。男の手は白く、震えていた。彼の目は、紬の見覚えのある決意に似ている。紬の中に、かつて現場で資材を抱え、仲間を鼓舞した感覚がよみがえった。補給士は物を配るだけではない。誰に何を渡すか、誰を信じるかを見定める役目だ。

「ここは譲れない」と紬が言う前に、乾いた銃声が響いた。悲鳴が一つ、まだ子どもが近くにいたことを告げた。航が肩を押さえて膝をついた。腕からは血が滴っている。若者の一人が倒れた影に覆われる。

時間が凍る。匠が叫ぶ。「誰か止血を──!」

マヤはすぐに走り寄り、布を切って患部を押さえる。紬の手は自然に万華鏡砲のグリップに戻った。心臓が早鐘を打つ。仲間の同意がなければ、砲を自分の意志だけで動かすことはできる。だがその代償は、感覚の一部を失うこと。紬はその恐れを知っている。色が、匂いが、音が、どれだけ日常を形作るか。彼女は失いたくなかった。

だが航の顔に浮かぶ苦痛が、言い訳を許さない。紬は目を閉じた。頭の中で、補給ラインの計算が組み立てられる。仲間の手が必要だ。瞬間の恐怖に押しつぶされそうになったとき、美津子が声を上げた。

「紬さん、私も一緒に!」

美津子は先ほどのバンドを指で撫で、硬い決意を携えて紬に近づいた。周囲の数人がそれに続き、総勢七名が自然と砲の周りに集まる。誰もが濡れた手を差し出した。合意だ。紬は息を整え、言葉を紡ぐ。

「計画を共有する。目標は二つ。航を安全に医療テントまで運ぶこと。ポンプ小屋の人々には逃げ道をつくる。攻撃ではない。混乱を作り、時間を稼ぐ」

匠が短く頷く。誰もが自分の意思で「同意する」と口に出した。万華鏡砲は、声と手の温度を受け取る。多面鏡がゆっくりと回り始め、内部に虹のような紋様が展開した。紬は掌を鏡面に押し当て、微かな振動を感じる。それは昔、現場で配給表を叩き締める時の感触に似ていた。

光が一度だけ収束し、砲身から低い波動が放たれた。空気が歪み、布がはためき、タープの結び目が音を立てて緩む。キャンプ内の視界が一瞬、入り組んだモザイクに変わり、箱舟側の視界だけが薄くなった。これは狙い通り、敵を直接攻撃するものではなく、彼らのレイアウト感を曖昧にすることで、我々に逃げ道を与える。一度だけの発動だ。計画は動き、仲間はその隙を突いて航を担いで撤退させた。匠と数人の若者がポンプ小屋の高齢者を促し、細い裏道へと導く。

だが、そこに一人残っていた。ポンプ小屋の前に、若者の一人が踏ん張って箱舟のメンバーを止めようとしている。顔つきからすれば、彼はまだ記憶の浅い抵抗者だった。紬はその青年が持つ子どもの手を見た。彼は拒絶を貫いた。合意の輪に入らなかったのだ。

紬は走り出した。逃げる余裕は何秒もなかった。駆けつけると少年の肩を掴み、引き離そうとする。その瞬間、箱舟の係員が鉄棒を振り上げた。紬の身体が反射的に動く。彼女は一度だけ考えずに手を万華鏡砲の縁に当て、自分の意志だけで「止める」ことを命じた。

冷たい波が掌を通り抜け、身体の中で何かがきしんだ。世界の色が瞬間、溶けたように感じた。目の前の景色からぽつりぽつりと色が零れ落ち、灰色の濃淡だけが残る。音は遠く、火花のように散る。少年は驚き硬直し、係員は力なく鉄棒を落とした。箱舟の足並みが乱れ、数人がよろめいた。

だがその直後、紬は強烈な痛みとともに膝をついた。掌の奥がしびれ、耳に遠い金属音が鳴り続ける。マヤの声が近いところで叫んだ。

「紬、何を──!」

匠の顔が切羽詰まっている。彼らは、紬が仲間の合意を破って砲を動かしたことを見ていた。箱舟の一部が倒れたことは事実だ。紬の行為は効果を上げたが、代償は現実だった。紬は自分の視界を手で撫でる。指先に残る感覚は確かに変わっていた。色が薄れていく。赤が赤であることを知っているが、鮮やかさが消え、世界は紙の版画のように見える。

「単独で使ったんだろう」匠が低く言った。怒りと恐れが混じる。「あの代償を知っていて、どうして──」